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「淡淡有情」 -千代さんメモリアルスクール-
 
     
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 樺太生まれの千代さんは、2000(平成12)年5月8日、熱帯のバッタンバン市でその生涯を閉じました。1953年に日本を離れてから亡くなるその日まで、彼女の人生には一人のカンボジア人が、分身のように寄り添っていました。南方特別留学生として1944(昭和19)年に日本留学を果たしたK.Rウォンサニットさんです。18歳で来日した彼は、東京都渋谷区代々木の千代さんの下宿から慶応大学へ通い、1951年に医学部を卒業、その後、来日したシハヌーク殿下にスカウトされて帰国を決意。1953年、独立したばかりの祖国に千代さんとともに戻り、外務省に入省。シンガポール大使まで務めた外交官です。しかし1975年、ポル・ポト政権樹立とともにフランスに亡命、1993年の帰還まで、パリ10区でクメール料理店を経営しておりました。
 私が二人に出会ったのは1980年代末。パリの北駅に近い場末にもかかわらず、手入れの行き届いた店内、真っ白なリネン、正統的クメール料理に驚かされました。さらに、オーナーは日本語が流ちょうなのです から!
 この店の店主ウォンサニットさんは、昭和18年に東条内閣の肝入りで始まった南方特別留学生制度の一員として日本にやってきたのでした。私は謎のレストランに通い、主人の問わず語りに耳を傾けました。辛い亡命生活を支え続けたのは、日本で受けた教育と千代さんの人柄でした。二人の波乱に満ちた生涯は、拙著「淡淡有情・忘れられた日本人の物語」(小学館発行)をご参照ください。
 戦前から南方特別留学生の「母」として慕われた故梶原千代(1913〜2000)さんを記念して、カンボジア北部バッタンバン州の小中学校内に、2003年9月開設した。
ポッティボーン小学校 生徒数 約600人
ゴダルドンティウ中学校 生徒数 約1,500人
 生前、一人でも多くの子供たちに教育の場を、将来の夢を、と願っていた千代さんの遺志をついで、2001年4月、「千代さんメモリアルスクール」のプロジェクトチームが結成されました。カンボジア大使小川剛太郎氏(現イラク復興支援大使)、公使の篠原勝弘氏がカンボジア教育省との橋渡しを、NPO法人「JHP学校をつくる会」(代表小山内美江子氏 http://www.jhp.or.jp)が校舎の建設、管理を、そして私が広報と募金係を引き受けました。NHKの「ラジオ夕刊」、サンケイ新聞を通じて、全国の方々に呼びかけたことや(財)ベルマークの会のご協力を得たこともあり、1年後に校舎建設のめどがたちました。
 そこで、ウォンサニットさんの故郷であり、千代さんの眠る地でもあるバッタンバン市に候補地を定め、JHPのプノンペン事務所が中心となり、最も切実に校舎が不足している学区の選定をすすめました。結果、小学校はポティボーン区、中学校はさらに数キロ入ったゴダルドンティウ区に決め、2003年3月着工。一棟5クラスの校舎と教室の備品、水洗トイレの設備をつけ、衛生面の充実も図りました。 また、贈呈式に際して、バレーボールネット、地球儀、生徒全員へ文房具品をプレゼントいたしました。小学校には、ウォンサニット氏が愛用の家具や日本語図書を寄贈し、図書室兼談話室を作りました。 小中学校とも、ドナープレートを教室に取り付け、協力者のお名前を銘記。現地を訪れる機会がありましたら、生徒たちの明るい笑顔とともにご覧下さい。
 2003年9月6日、中学校で行われた贈呈式には、ウォンサニットさん、シソワット・ポンニャリー・モニボン王女、小川郷太郎大使、教育省副長官、バッタンバン州知事らが参列し、生徒達の舞う民族舞踊、ドナーのお一人である岩崎逸子さんの独唱などが披露され、なごやかで盛大なイベントとなりました。
 贈呈式に、タイ産の南洋サクラの苗木を小中学校の校庭に植えたところ、あっという間に大きく育ち、3年後にみごと花を咲かせました。ドナーの皆様とともにお花見をかねて小中学校を訪れるのが当面の夢です。

新しい校舎が中学校に。
  2005年、ゴダルドンティウ区の中学校から教室増設の要請を受け、2006年5月に校舎が一棟新設になりました。これは、千代さんスクールのドナーだった故岩崎逸子さんの思い出のために、夫の賢二さんが寄付をなさったものです。新校舎完成により、300名近い生徒さんが、学習の場を手に入れることができました。千代さんスクールの姉妹校舎のように、仲良く並んで建っています。
 2006年11月22日にウォンサニットさんがバッタンバンで亡くなりました。享年80歳でした。母国の復興に余生を捧げたいと勇んでパリから帰還したものの、政治も社会もすっかり変わり果て、結局、なすすべもなく不遇のうちに人生を終えたウォンサニットさん。晩年の唯一の生き甲斐は親戚の子供達の大学進学支援でした。そのおかげで、一人はプノンペン国立大学へ、もうひとりはフランス留学へしています。
「再び日本へ行ってお花見をしたい」
戦前の日本教育を受けた“大東亜の留学生"は、花吹雪の中で青春を取り戻したかったのでしょうか。今でも日本語を話し、日本に身もだえするような愛憎を抱くアジアの人々を忘れてはならない。彼の苦渋の人生をふりかえるたびにそう思うのです。
 ここ数年、台湾との文化交流に時間を割き、バッタンバンまで行く時間がなかなか作れませんでした。ようやく、2008年11月17日と18日の両日に、校舎建設を担当したNPO団体「JHP・学校をつくる会」プノンペン事務所のスタッフ(七條さん、新谷さん、ロワットさん)、東京都在住のドナー山口俊明さんとともに、約3年ぶりに小中学校を訪ねました。
 今回は、校舎完成後に頂いた募金が70万円を越しましたので、当面の支援をどのように行うか現地の声をヒアリングするのが目的です。また、ドナーの方に実情をご覧頂くことも兼ねての視察となりました。

プノンペンからの道路が格段によくなったおかげで、バッタンバンまでは5時間ほどで到着。私が『淡淡有情』の取材を重ねていたときは、最低8時間、しかも途中で車の故障が日常茶飯事でしたので、これほどすいすい行くと、よその国に来たようです。
以前は、プノンペンを朝8時前に出発しても、コンポンチャム州内で昼食をとるのがやっとでしたが、この日もバッタンバン州の手前のポーサット州でお昼の休憩ができました。

さて、建設から5年が経ち、中学校、小学校とも校舎の外観は多少汚れが出てきましたが、それも貫禄の表れでしょうか。目立った破損や施工上の問題点はなく、さらに増えた生徒たちの学びの場として立派に運営されていました。顔見知りの先生方が笑顔で迎えて下さり、もぎたてのココナッツジュースをごちそうになりました。

 2003年の贈呈式の際に植えた苗木は、いまや高さ10メートル近くに生長し毎年ピンクの花を咲かせています。中学校の先生や生徒たちの間では「サクラ」という愛称がすっかり定着しており、樹木の前には「サクラ」の札が立っていました。この樹木の学名を訪問後にシェムリアップの図書館で調べたところ、 「Lagerstroemia Macrocarpa」のようですが、これだとサルスベリ科の花??
 ごめんなさい、もう少しよく調べてみます! 毎年の開花は11月〜2月まで。真っ盛りになるのは1月と聞きました。
 したがって、皆様とお花見ツァーに出かけるなら、1月がベストシーズンですね。2010年にツァーが組めるよう、今から計画を練りたいと思っております。
 中学校は比較的敷地が広いため校舎がさらに2棟新設され、2部授業は解消されました。現在は1480名余りの生徒が朝から昼過ぎまで学んでいます。なお、ゴダルドンティウ中学校は「JHP」の音楽教育支援対象校にもなっているため、ピアニカを使っての授業が試験的に始まっていました。この陰には、今年5月に急逝なさったJHP前プノンペン事務所所長馬清さんのご尽力があります。ご冥福を心からお祈り申し上げます。
カンボジアでは音楽理論を教えられる先生が大変少ないため、継続するには先生のトレーニングから始めなければならず、音楽教育プロジェクトには長い時間と費用がかかりそうです。同行したJHPの担当者からは2009年度に向けたトレーニング計画に援助を、という要望が出ております。

一方、中学校の先生方からはコピー機の必要性を強く訴えられました。コピー機がない学校など我々には考えられませんが、この中学ではコピーをとる際は、バイクで街まで出向き、その往復の手間と費用が大変だそう。コピー機は1台約700〜800ドルで購入可。アフターサービスをしてくれる会社もバッタンバンにあるので、問題はなさそうです。品質の良い中古品を探して2台置いてもよいかもしれません。こちらの支援はかなり現実的だと感じました。そのほか、地理や生物、物理、化学など、教材の絶対的不足も深刻です。子供たちは本物の顕微鏡を見たこともありません。星座表や各種模型の類もありません。会議にも同席して下さったドナーの山口さんから、その場で300ドルの支援を頂きましたので、現金はJHPに渡し教材をプノンペンで探してもらい、見積もりを後ほどもらうことにしました。

小学校の支援は図書館の充実を
 その後ポッティボーン小学校を訪れ、校長先生やコミュニティ・リーダーと話し合いました。小学校は生徒が増え(この地区では就学率が90%に達している)、校舎の不足が切実な問題でした。しかし、ポッティボーン小学校は敷地の狭さに加え水はけに問題があり、これ以上大きな校舎を建てるわけにはいきません。そこで、貧困家庭の生徒約300人を対象に、まず文房具の支援をすることになり来月にも品物をJHPから届けて貰うよう致しました。こちらも山口さんがすぐに300ドルの寄付を申し出て下さったおかげです。有り難うございました!
ポティボーン小学校は、すぐそばのお寺の古い校舎を使って授業を一部していたのですが、老朽化のため危険が多く現在は閉鎖中。校舎の新設が必要なのですが、それには500万円ほどかかります。今回の追加支援ではとうてい無理なので、学校側が強く望んでいる図書館の充実、すなわち書架と蔵書の充実を図ることに致します。また、各クラスで4枚づつ使う掲示板合計85枚も支援できそうです。これらの見積もりを、故ウォンサニットさんの遠縁にあたる家具工場、その他で見積もりをとったうえで発注します。なお、ウォンサニットさんが家具などを寄付して下さった談話室は、当地区の学校群会議室として使われていました。
お墓参りも済ませました
 11月18日はウォンサニットさんのちょうど3回忌にあたりましたので、お墓へ出向き、菊の花を献花しました千代さんとウォンサニットさんは仲良くいっしょに眠っておられます。写真はウォンサニットさんのイトコの娘夫婦(真ん中)とその娘さんと親戚の男性(左端)です。小乗仏教の功徳思想が生活にゆきわたっているとはいえ、彼らが大変よく墓守をしてくださっており感激しました。ウォンサニットさんの遺品は、イトコ夫婦のお宅に整理整頓して保管されていました。
墓周辺の整備と塗り直しのための寄付もして参りました。
 校舎を建てたところでおしまいになるケースが多いのですが、幸い2校ともJHPのバッタンバン区の学校建設の先駆けとなったことから、スタッフが定期的に学校側と連絡をとってくれております。 先生方の意欲もあり、ささやかながら教材の充実をお手伝いする方向で支援が続けて行かれればと思っています。それにはやはり出来る限り時間を作って現地におもむき、実態に即した支援を考えるべきだと痛感しました。

ひとつ残念だったのは、千代さんが熱心に子供たちに教えていたしつけ(整理整頓、衛生、美化)を地元の学校にも取り入れてほしいという、当初の要請があまり守られていないことです。先生方もそこまで余力がないのか、相変わらず校舎の回りにはゴミが目立ち、環境や美化運動のとり組みが遅れていると認めざるを得ません。
こうした現実を見るたびに、戦前日本が統治した国や地域ではよくぞ衛生教育としつけの徹底がなされたと感心してしまう私です。
ドナーツァーのたびに、何か楽しみながらいっしょにお掃除ができるようなプログラムができるとよいと思いました。
以上今回のご報告を終わりますが、今後とも皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
 千代さんとウォンサニット氏の遺志は、子供達に勉強の場を、というだけでなく、整理整頓、清潔な暮らし、という日常の生活指導にも及んでいます。現在、上記の学校では身近な環境問題に取り組んでいます。また、ポッティボーンの小学校からは校舎の増設申請が来ております。「JHP・学校をつくる会」や教育省とともに相談をしながら、地元の声に即した支援をしていきたいと思っております。継続は力なり。このひとことに尽きますね!
*寄付口座
三菱東京UFJ銀行 自由が丘駅前支店 普通 1314468
千代さん基金 平野久美子
*先般の「千代さんのメモリアルスクールを建てる会」は名称が長いため変更しました。