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ニッポンの中のアジア まかりとおる推定有罪 #2 -激励の手紙を書いた-
 
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 昨年の12月22日に激励の手紙を出したところ、張さんから返事が届いた。いく千、いく万とどんな言葉を積み重ねても、不当判決を受けて独房へ戻った悔しさと悲しみは決して癒されないと思っていた。しかし、多くの支援者の激励に、「以前より強くなれた。現実を直視して前進し、最後の闘いに臨みたい」と本人が言っていることを知り、枯れ木も山の賑わいで、少しはお役に立てたのかとほっとした。張さん本人の許可を頂けたので、随時手紙を公開し、一人でも多くのみなさんに彼の無実の声を届け、この事件と判決を考えて頂きたいと思う。

以下の手紙は今年の1月末に頂いたもの。

基本的に原文ままとする(テニオハの直しはわずか1,2箇所だけにとどめてある)。自分の立場を冷静に見据えながら、公開裁判主義の問題点を被告の立場から説明している。論理の整然性と彼の日本語の上手さ、勉強のあとが随所に見えて感心する。
張さんからの手紙 Vol.1
拝啓 冬将軍が意地を張るのもあと1ヶ月くらいですけれど、檻の中に閉じこめられている者にとっては、桜咲く春は夢のように遠い別世界の話です。

 いかがお過ごしでしょうか?

平野さんからのお手紙は、1月24日に届きました。私の無念を、ご自分のようにご心配下さって、本当に有り難うございました。愚かなことに私は、こんな所に入れられてから。世の中には温かい心を持つ人々が自分が思っていたより沢山、周りにいることに気付きました。日本語の表現を借りると「世の中まだまだ捨てたもんじゃない」でしょうネ。

お手紙の中で「刑事事件や裁判のことはまったく専門外」とおっしゃいましたが、裁判の傍聴をされてみたご感想はいかがでしょうか?

私の場合は、弁護団の要請で「無罪推定の原則」に基づき、私が先に法廷に入場してから傍聴人を入場させたのですが、普通の場合は、傍聴人を入場させてから被告人を連れてくるのです。そういうことで、被告人は両手に手錠をかけられ、腰ひもで打たれ、刑務官2人に両サイドで連れられながらさらし者にされるのが、一般的な法廷模様です。

私はまったく孤立無援の状態で闘った一審裁判では、ジーパンにジャンパー姿で、ゴムスリッパーをはいてサル回しされました。髪を長く伸ばすことだけが、無実の被告人としての精一杯のアピールでした。(日本人は、認めている事件ではほとんど丸刈りで裁判を受けます。反省のポーズらしいです)。

入場する際、私の姿を驚きの顔で見ていたアベックの表情を、3年経った(今も)未だに忘れることができません。事件名など公表されていますので、多分、「外人殺人鬼」と思って見ていたんでしょうね(苦笑)

以前、裁判傍聴マニアが書いた本を何冊か読んでみたことがありました。いずれも「裁判傍聴は憲法で守られている国民の権利だから皆で見にいこう!おもしろいよ!!」という風な内容でした。

 特に印象的だったのは「傍聴席に座って、被告人をじっと視ながら正義の審判を・・・・」と書いてあった本でした。被告人は、明らかに否認して無実を訴えているのに、その著者は殺人犯として決めつけ、プレッシャーを与えようと努力したと自慢げに書いているのです。その本を書いた著者のみならず、多分、多くの方々が「何故裁判は国民に公開されているのか?」について少なからぬ誤解をされているようです。

ご存じのように日本国憲法第37条は「すべて刑事事件においては被告人は公正な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と規定しているのです。

それでは憲法とはいったい何でしょう?

これについても多くの方々が「国の最高法規であり、私たち国民が忠実に守らなければならない」と誤解しておられることをしばしば感じます(このような誤解は、一般市民に限らず、雑誌などのコラムでもたまにみられるから驚くばかりです)しかし、本来の立憲主義の定義は「憲法とは、唯一正当に暴力を行使することを許された国家が、国家権力の行使によって、国民の基本的な権利を侵害しないように、国民が国家に対して押しつけた法律」(『法学セミナー』2007・5・6項)であるのです。憲法のどの部分を探してみても、国民の権利意外に義務を規定したところは一つもありません。つまり憲法第37条に規定されている「公開裁判主義」は、訴追されている被告人の基本的な権利を意味するものであって(公平・公正な裁判を受ける権利)国民の退屈をしのがせるために国家が提供するエンターテイメントの場では決してないのです。

その傍聴マニアの方々には、裁判という行事が面白いエンターテイメントに思われているでしょうけど、実際に被告人席に座っている人の心境を少しでも考えてみたらどうですか?(と言いたいです)どんなに凶悪な罪を犯した人間であっても、自分が受ける権利を奪ってはいけません。国家権力である警察・検察・裁判所が、本当に公正に働いているのか?無実の者が不当に罰せられることはないのか?罪を犯した者が不当に重く罰せられることはないのか?

裁かれる国民の権利を守るため、国民自らが裁判を監視し、公正さを確保するのが「公開裁判主義」の意味なのです。そして、裁判傍聴も、その意味を実現させる国民の神聖な権利と同時に義務をとして公使されるときに、初めて本当の意味を持つのでしょう。

「私は犯罪などは無縁だから!」と思う方も沢山おられるでしょうけど、一つ忘れてはいけないことは、まったく身に覚えのない罪で逮捕・起訴され、有罪判決を言い渡されている冤罪者の多くが、犯罪とはまったく無縁であった善良な一般市民であるということなのです。これから刑事裁判の傍聴に行こうと思っておられる方々には、是非このような権利行使の責任感を自覚し、裁かれている被告人のためにも公正な裁判が行われるよう、厳しい監視の目を凝らして下さって欲しいですネ。

何か生意気なことばかり書いて恐縮と思います。年が明けてからは上告準備のため趣意書作成にばたばたしております。本来は無辜の救済に充実(忠実?)な裁判官が任命されるはずの最高裁判所の判事の座に、なぜか国に忠誠な裁判官ばかりが集まっているのが現実です。年間3000件近くの上告事件を、たったの15人の裁判官で処理していますからネ。(もちろんその下に、調査完成度を設けてはおりますが)3000件近くのうち、1〜3件のみが職権確棄されるらしいです。つまり0.1%の可能性なのです。

ほとんど不可能に近いことを知りながらも、控訴棄却された被告人の42%が上告を申し立てます。(起訴申し立て率は5,4%)

この現状は何を意味しているのでしょうか?一審判決を受けて控訴をあきらめる人の多くは実際罪を犯している人です。ご存じのように上訴権を行使すれば、未決通算(拘留されていた期間中の一部を本件に入れて、すでに服したことと認めること)を損します。事件によって少しの差はありますが、大体の場合、一審が拘留されていた期間の三分の二、控訴審が二分の一、上告審が三分の一を計算してくれます。長く拘留されて裁判を受けると損することになるのでしょう。だから、本当に罪を犯した人はなるべく早い段階で裁判を終わらせ、刑務所に行って務めようとしているのです。

しかし、無実の罪で裁かれている人はどうでしょうか?未決通算が0になろうとも、最後までチャンスがある限り上訴権を行使しようとするのです。

 冷酷なことに、この日本の司法システムは無実を訴える人には余りにも厳しく過酷です。ひにんすると、それを理由として、面会も一切禁止され、保釈も認められず、最後まで独房の中に収容されることを覚悟しなければなりません。接見禁止がつくと本も新聞も読むことができず、手紙の発受信も禁止されます(私の場合は孤立無援であることを検察官が知っていましたのでたった20日間で接見禁止が解けました)。まさに人質司法で、糾問司法であります。

長くなりました。

狭いところに閉じこめられていると、どうしてもネガチブなことばかり考えてしまいます。

HPを持っておられるんですか?私の手紙を載せて下されば有り難いです。1人でも多くの方々にこの理不尽な現実を知らせたいと思いますのでそういう道があれば幸いです。


それではまたお手紙を差し上げますので、今日はこの辺で失礼をさせていただきたいと思います。くれぐれもお体にはご自愛下さい。  敬具 

                                無実の張禮俊
 彼は昨今の裁判傍聴ブームを痛烈に批判している。覗き趣味のエンターテイメントとして扱う一部のマスコミは、張さんの言うとおり公開裁判主義の本質を理解していない。猛省しなくてはならない。

私はひょんなことから張さんを知った。普通なら長い人生の道程で互いにすれ違いさえしなかっただろう。まったく見ず知らずの彼を励ますことで、他人の痛みを真摯に受け取れる人間になりたいと思っている。それができれば張さんの向こうに広がるアジアと「共に生きる」という、自分の信条にも合致するだろう。

「縁」というものは、ほんとうにフシギで人間を超越した意思が働いているように思えてくる。私はすでに多くのことを学んでいる。張さん、カムサハムニダ。

3月末、自宅前の遊歩道の桜が満開になったので、その写真を撮って激励の手紙とともに張さんに送った。
張さんからの手紙 Vol.2
拝啓 ここ何日間は、また、冬に逆戻りしたような寒さが続きましたが、いかがお過ごしでしょうか? 
この中からは、スティックコーヒー(インスタントコーヒー)が買えます。平日には1日2回、土、日や連休などには熱いお湯をコップ1杯もらえますので、ちょっとしたコーヒータイムになります。プラスチックコップの中にインスタントコーヒーを入れて食器口に置くと、外から世話役の受刑者(掃夫と呼びます)が、やかんにお湯を入れて各房を回りながらお湯を入れてくれるのです。
 ここは時計がありませんので(何故なのか理由がわかりませんけど、コーヒータイムや缶を開けてくれる時間、そして配食時間になると、外から掃夫さんが大声で叫びます。
「コーヒー!! 呼知機〜!!」
と、65室全部に聞こえるくらい、大声を発します。
まさにアナログという感じでしょう! ちなみに「呼知機」というのは、房の中にあるボタンを押すと房の前(ドアの上)に、パチンコ屋みたいに青いランプがつくのですが、看守を呼ぶときに使うものです。

 先々週はいよいよ暖かくなってきたなと思って、インスタントコーヒーを買うのをやめました。それが、ここ最近寒い日が続きましたので、少し後悔しています。日曜日の午前10時になると、ラジオでクラシック音楽の番組が1時間放送されるのですが、ちょうどその時がコーヒータイムになります。私は、外にいる頃にはクラシックにあまり興味がありませんでしたけれど、この中で2年も聴いていると、その良さを少しづつ知るようになってきました。1杯のコーヒーとクラシック。目を閉じればこの苦しく悲惨な現実から1時間は逃れることができるのです。今、ちょうどその時間なのですが、今日はコーヒーの代わりに平野さんにお手紙を書いています。

 送って下さった3月29日付のお手紙は、大変嬉しく拝見致しました。お返事が遅くなって申し訳ございません。実は、1月末頃からずっと上告趣意書を作成していますので、近頃は屋外運動に出る時間も惜しいほど忙しく過ごしています。
 一応、4月1日付けで上告趣意書を最高裁に提出しましたが、事件発生の経緯や背景などについて詳細に書いたものも提出しようと思い、現在「補充書」という形で作成しているところです。量が少し多くなりましたので、1度につつんで提出することはできず、1部と2部に分けてつつんでいます。1部はすでに出来上がりましたので、残りは5月中には出来上がると思っています。

 それにしても趣意書の差し出し日を1ヶ月しか認めてくれませんでしたので、延期願いを3ヶ月申し出てみましたが、やっと1ヶ月の延長を許してもらいました。
 しかし、外国人である私が、業務用紙200枚を超える趣意書をたった2ヶ月で書き上げることができるはずもなく、時間に追われながら何とか書き上げましたが、本当に子供の文章になってしまいました。被告人の言い分を軽視することは、地裁も高裁も、そして最高裁も全く同じでしょうね。それを知りながら、他に訴えるところがありませんので、仕方なくまた裁判所の門を叩きます。誰かが最高裁判所へ行って「迅速な裁判は被告人のためであって、裁判所のためではない!!」と教えてあげて欲しいです。憲法をどう解釈すれば「迅速な裁判を受ける権利」が「迅速な裁判を行わなければならない義務」になれるのか、全くわけが分からなくなってしまいました。

 この春には本当にいろいろな出来事がありました。私と客野喜美子さんの縁をつないで下さったのが三浦さんなんですが、サイパンで逮捕されたという知らせも聞こえてきましたし、文通友(ペンパル)で冤罪仲間でもある守大助さんの上告棄却判決もありました。
 この中に閉じこめられていると、良い知らせよりは悪い知らせの方が圧倒的に多く聞こえてきますので、話を交わす相手もいない独房の中で座り放しで、それを話頭(*念頭?)に残忍なほど思索を強いられてしまうのです。こんな生活もすでに4年近くになりますが、いまだに慣れず苦労しています。

 同封して下さった桜の写真は、とてもきれいでした。有り難うございました。
ピンク色の花と空の色がとても似合いますよね。この中からは、残念ながら季節の変化に気付くことはできません。ただ暑くなったり寒くなったりの毎日です。窓の外には目隠し板が張られていますので、外の風景は全く見えない仕組みになっています。色で季節の変化を感じられるのは、年2度刑務官の制服の色が変わることと、面会に来て下さる方々の服装からなのです(苦笑)

 それでは、今日はこの辺で失礼致します。趣意書のことでお返事を差し上げることが少し遅れると思いますので、どうぞお夜士下さい、またお手紙を差し上げます。

 敬具
無実の張禮俊
平野久美子様        
まだ最高裁の判決が出ていないのに、これほど不自由な生活を強いられるとは・・・。インスタントコーヒーより美味しく抽出できるコーヒーやクラシックのCDを差し入れたくてもできない現実は辛い。下に記した「東京拘置所面会案内」というサイトを見ると、拘置所の面会や差し入れがどれほど規制が多いかよくわかる。

 上告趣意書を自分の手で、とがんばっている張さんだが、事件の経緯をよくよく思い出して裁判所に提出をしてほしい。特に二審で裁判長から指摘のあった手のひらの線状痕の件。それがどういう性質のものか明らかになれば、アリバイや動機は争うまでもないと思われる。幸い優秀な弁護団がついているから、上告趣意書は説得力のあるものになったと思う。それにしても200枚(原稿用紙?それともA4用紙?)というボリュームを、たった2ヶ月で書き上げるのがどれだけ大変かなことか。ましてや張さんは外国人だ。母国語でないよその国の言葉で、裁判官に無実を訴えるのは至難の技である。だが、それをやりとげる強い意思を彼は持っている。きっと内容のある補充書に仕上がるだろう。最高裁の裁判官が、どう判断するかは別問題だが・・・・少しでも可能性があるならそれを信じたい。
関連サイト
「守大助さんからのメッセージ」という書き込みの中に「拘置所の環境」という項目があります。彼は仙台拘置所の実情を警察の代用監獄と比較して書いていますが、これを読むと、東京拘置所に収監されている張さんの日常が少しは想像がつきます。
守大助さんを支援する首都圏の会
東京拘置所面会案内