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日台の知られざる水の絆の物語 〜 「鳥居信平」
鳥居信平像、ついに完成!胸像の除幕式は来年6月にも・・・
『正論』09年2月号に新たな記事を掲載しました
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「あの映画のおかげで、日本統治時代のことを知りたいという若者が増えました。鳥居信平にもさらに関心が集まるでしょう」

 この秋、台湾最南端の屏東県で曹啓鴻(そう・けいこう)県長と会ったとき、彼は嬉しそうにこう話した。県内の恒春一帯がロケ地になった「あの映画」とは、二〇〇八年八月の封切り以来、すでに興行収入が五億元(約15億円)を超え、社会現象にまでなっている台湾映画『海角七号』(魏徳聖監督)のことである。ひと味違うラブストーリーに仕上がっているのは、日台にまたがる新旧の恋を縦糸と横糸に使った構成の妙。六十数年前の宛先不明のラブレターが現代の恋物語を盛り上げ、観客を甘く切ない気分に誘う。セピア色のラブレターとは、敗戦国民となった日本人教師が引き揚げ船の中で想いを寄せる台湾人女生徒に綴った七通の手紙。教師の死後、その娘が戦前のままの番地「海角七号」に送りつけたものを、主人公(夢破れて故郷に戻り郵便配達をする若者)らが宛先を探し出し、永遠の愛をそっと届けにいく。やがて、手紙の束に気付いた老女は、群青色の夕暮れに染まって手紙を読み始めた・・・・・・。

このラストシーンを包むのは、♪わらべは見たり、野中のばら♪という、お馴染みの唱歌『野ばら』(シューベルト作曲)のメロディーだ。私はこの映画を高雄で観たが、館内では歌詞をくちずさむお年寄りやすすり泣きする若い女性が目に付いた。世代を問わず観客の心をつかんだのは時空を超えた純愛であり、日台の歴史に寄り添う心と心の交流だろう。

曹県長が期待を寄せるのは、この映画の波及効果である。ロケ地恒春から約四十キロメートル離れた林辺渓。ここに造られた日本統治時代の灌漑施設「二峰圳」(にほうしゅう)が、今年になって県の土木遺産になり、県外からも関心が集まっている。「嬉しいことに」と県長は続ける。春に二峰圳を訪れた『奇美実業股分有限公司』の創始者許文龍(80)さんが、功労者の日本人技師鳥居信平(とりい・のぶへい、一八八三〜一九四六)の胸像制作と寄贈を申し出て、それをきっかけに日台の新たな交流が始まったという。

二峰圳の完成から八十余年、日本人の知らない日本人技師に、台湾の熱い視線が注がれている。
若き日の鳥居信平像。
慈愛に満ちた父親の素顔が胸像になった(制作・許文龍氏)
胸像の元になった信平。久々に屏東の社宅で過ごす父と子(右は小学2年生頃の鉄也さん)
 
 その人、鳥居信平の名前を私が初めて聞いたのは、二〇〇七年春のことだった。日本ではまったく無名の技師が、没後六十余年後も高く評価され、屏東県内の中学校の副読本にまで登場している。いったい彼はどんなすごい功績を遺したのだろうか?  

 そこで二〇〇七年秋に再び屏東県を訪れ、鳥居信平の造った地下ダム「二峰圳」なるものを見学した。屏東市から南へ車で三十分ほど走ると、オゾンがあふれる深い森に囲まれた林辺渓に出る。昔から雨期には洪水を起こし、乾期には干上がってしまう農民泣かせの急流だった。

 初めにお断りしておくが、 “地下ダム”と言ってもコンクリート製の巨大なダムが地中に埋まっているわけではない。源を大武山に発する全長四十二キロメートルの林辺渓の上流の川床に、堰堤を埋めて伏流水(河川あるいは湖などから入り込んで地下を流れる水)を溜めている。そのため台湾ではDam=水を堰き止めるもの、の字義どおり解釈して、”地下ダム”と呼んでいるのだ。

 川幅いっぱいに設けられた堰堤は、完成からすでに八十年以上経ち、上部が川面から見え隠れしていた。現在でも一日あたり雨期なら十二万トン、乾期でも約三万トンの供給量を誇り、どんなに豪雨が降ろうとも地下水のため濁らず、飲料水としても役立っている。しかも普通のダムと違って底部に土砂が堆積しない。電力を使わないので、維持管理にお金がかからない。戦後、二峰圳の補修工事は屏東県政府と国営企業の『台糖』の両者が共同で行ってきたが、これまでに大規模な修理は台風の被害を受けた三回だけ。普通のダムに比べてはるかに管理がたやすい。 

 これほど環境に優しい優れた施設なのに、日本統治時代の民間企業が造ったせいか、台湾でも日本でもほとんど注目を集めることはなかった。学生時代から二峰圳の研究を続けている国立屏東科技大学の丁K士(てい・てつし)教授(53)によると、養魚場の急増によって中南部の地盤沈下が深刻になった一九八〇年代から、二峰圳の生態工法が見直されたという。

「鳥居は、原住民たちの狩り場や漁場を奪うことなく、周囲の風景もそのままに、伏流水を使って自然に優しい工法を思いついたのです。現代の僕らが見習うべき智恵が、二峰圳にはいっぱい詰まっています」(丁教授)

 屏東県では、鳥居信平の工法を参考にして洪水であふれた林辺渓の水を人工池に溜め、地下水を増やすことで地盤沈下を防ぐ事業を進めている。また、高雄県との県境を流れる高屏渓の支流では、取水堰を造り表流水と伏流水を取り入れる工事が始まった。さらに、大甲渓や老(クサカンムリ付く)濃渓でも、信平の発想を取り入れた取水工の計画が進行中だ。

 二峰圳のような地下ダムは、戦前、国内にもあったのだろうか? 調べてみると、二峰圳の完成から十一年後の一九三四(昭和九)年に、愛知県春日井郡(現在の春日井市)を流れる内津川に地下堰堤を設け、水田に灌漑した記録があった(『土地改良事業計画基準 第3部設計 第4地下水工』農林省農地局編)。その後、一九四三(昭和一八)年に那須の扇状地に建設構想が持ち上がったものの諸般の事情で断念。戦後の一九七三(昭和四八)年になって長崎県野母崎町(現在の長崎市)に「樺島ダム」が完成したが、今は使われていない。したがって、台湾で活躍し続ける二峰圳が、日本初の地下ダムということになる。

屏東県の土木遺産となったのも、丁教授のような戦後生まれの学者が関係者を探し出し、集めた資料を地道に研究し、さらに若い環境活動家たちとともに行政を動かした成果だ。私はそのことに両国の水の絆を強く感じ、今年の二月、鳥居信平の功績をある月刊誌で紹介した。
 その記事に誰よりも関心を示したのは、生誕地である静岡県袋井の市民の皆さんだった。

「このような人物が我が町から出たのか、という素直な感動とともに、地元で英雄視されているあの鳥居鉄也氏の父親という事実に驚いた」と話すのは、袋井市議を務める山本貴史(39)さん。彼の言う鳥居鉄也(一九一八〜二〇〇八)氏とは、越冬隊長を2度も務めた南極探検のフロンティアであり、極地研究にその一生を捧げた地球化学者である。山本さんが鳥居父子について書いた一文が興味深い。

  南極に旅発つ鉄也氏を見送った記憶を持つ者は、当時、月ほども遠い南の最果てを想像しながら、この人は生きては戻れないだろう、と密かに思ったという。その人が、南極の石を山ほども抱えて無事帰還した時の郷土の興奮というのは想像に難くない。

  当時の熱が未だ冷めやらぬ人々にと って、突如現出した鳥居信平の功績は、 眩しすぎるであろう。息子である鉄也氏の偉業を重ねながら、さもあらんと得心する者があれば、このような人物を親子二代にわたって輩出した土壌にいかなる要素があるものか首をひねる者もいる。(日本李登輝友の会発行『日台共栄』〇八年十一月号より)


 鳥居信平は一八八三(明治一六)年一月六日、静岡県周智郡上山梨村(現在の袋井市)の農家の三男として生まれた。太田川が市の北から南へ縦断して流れる袋井は、昔から湧き水の豊かな水郷として知られ、良質の米や茶を生産してきた。信平の生家があった山梨町の一角にたたずむと、青灰色の山並みと水田と小川が調和するアルカディアのような田園風景に惚れ惚れとする。後に信平が南台湾の奥地で伏流水に目を付けたのも、幼い頃から湧き水に親しみ、知らぬ間に水の性質を身につけたおかげではないだろうか。

 鳥居家は、祖父の代に三河の国から菩提寺の門徒として上山梨村へ移り、父親が当時としては珍しい洋蘭の栽培を手がけて財を築いたらしい。家が裕福だったため、優秀な成績で地元の中学を終えた信平少年を、父親は金沢にある旧制第四高校(四高)に送った。四高は強健な学風、剛気な気風で知られ、 政財界に多くの逸材を出している。興味深いのは後に台湾で「嘉南大圳の父」と呼ばれる八田與一が、信平が卒業した一九〇四(明治三七)年に四高へ入学し、その後同じように東京帝国大学に進学していること。台湾を舞台に技師として活躍する二人の人生は、この頃からつかず離れず、重なり始める。

 信平は東京帝大農科大学を卒業すると農商務省農務局に就職。その後、天然資源の宝庫として注目されていた清国山西省農林学堂教授を務め、帰国後は徳島県技師となった。

 やがて、恩師の上野英三郎(一八七一〜一九二五)博士から『台湾製糖』への転身を勧められる。当時の台湾の製糖業界は、総督府とともに風雨に強い優良品種の育成に努め、土地改良、灌漑と排水システムの改善などを推し進めていた。そのため、農業土木の若き専門家を求めていたのである。『台湾製糖』の専務山本悌二郎と親交のあった上野博士が愛弟子を推挙したのは、信平なら山積みの課題を解決できるとふんだのだろう。

 新しい赴任先が決まると、結婚したばかりの妻の実家から「娘を台湾に嫁に出したつもりはない」と猛反発がおきた。だが、由緒ある武家の血をひく妻のまさに、何の迷いもなかった。一九一四(大正三)年、三十一歳の信平は気丈な妻と徳島県でいっしょに働いていた技師たちを同行して、北回帰線(北緯二十三度二十七分)を越え南へ南へと下って行った。

 信平と入れ替わりに金沢の四高へ入学し、東京帝大土木科へ進んだ八田與一はどうしていたのか? というと、信平よりひと足先の一九一〇(明治四三)年に、台湾総督府土木部技手を拝命して渡台していた。信平がやってきた年には総督府土木局の技師に就任している。その後ふたりは官と民という立場の違いこそあれ、ほぼ二十五年にわたり活躍をした。彼らの代表的な仕事となった萬隆農場の土地改良と嘉南大圳の灌漑事業は、どちらも一九一九(大正八)年に立案、八田は一九二〇(大正九)年から、信平は一九二一(大正一一)年から工事にとりかかっている。『台湾製糖』が自社農場開設に意欲的だったのは八田が立案した嘉南大圳とも関係がある。出資はしたものの、完成はまだ先のこと。そこでサトウキビの安定供給を図るため、総督府からの払い下げ地に周辺の土地を加え、自力で開墾することにしたのだ。

 ふたりの公式な交友録は残っていないが、台湾総督府の殖産局や土木課と『台湾製糖』は、サトウキビの増産や灌漑工事に関して密接な連絡を取っていたから、互いの仕事ぶりは十分に理解し、意識していたはずである。
 農事部に迎えられた信平は恩師の教え通り、経済性の良い灌漑設備を造るべく、ただちに水源、土壌、降水量の科学的調査を開始する。大正時代初めの台湾はまだ治安が安定していなかった。総督府に帰順しない住民ばかりか毒蛇や獣が侵入者の命を狙う。さらには八種の法定伝染病と風土病(マラリア、デング熱)が猛威をふるっていたから、技師たちは命がけで山へ分け入ったのである。

忍耐強い調査の結果、林辺渓の集水区域は、年間五千ミリを超える雨量があるのに、土壌や傾斜の関係で保水力が弱いことがわかった。勾配落差の甚だしい地域に大型ダムを建設することは工費の上からも意味のないことだった。どのように効率良く水源を確保するか? 信平はデータをつきあわせ、パズルを解くように分析していった。用水量から逆算して彼が目を付けたのは、屏東平原の海抜十五メートルの地点までを潤す伏流水だった。 地下ダムを造るためには、地盤沈下が起こらないような堅牢な地層、止水壁を建設するのに都合のよい基盤、貯水域に補給できるだけの降雨量と地下水、以上三点が絶対条件だ。さらに綿密な調査を繰り返した結果、林辺渓一帯が三つの条件を満たしていることを突き止めた。次に、河床をどれくらい掘って堰を埋めれば安定して伏流水を確保できるかを探り、結局、地下七,二七メートルの深さに決定したのだった。

一九一八(大正七)年からは、仏領インドシナやオランダ領インドネシア、英領ビルマなどの水利行政とサトウキビの栽培事情を視察。翌年から信平は、家族を屏東市内の社宅に残し建設予定地に単身赴任。以後、十余年に渡り現場と社宅を往復する生活を続けた。     原住民の説得にも力を注いだ信平は、山の奥へ郡守や取締役らと出向き、水源の使用許可を得るために灌漑工事の重要性を説明してまわった。二〇〇七年の秋、私は当時の頭目の親戚にあたるパイワン族の実力者を訪ねた。ワシの羽根が付いた勇者の冠をかぶった老人は、威厳に満ちていた。彼の口から信平の名前こそ出なかったものの、「祖父は日本人のリーダーと義兄弟の契りを結んだので、争いごともなく、集落全体で工事に協力した」と話してくれた。酒が何より好きだった信平は、頭目の家でシカ肉やタケノコを肴に粟から作ったどぶろくを飲み、そのまま酔いつぶれたこともあっただろう。東京帝国大学を卒業した当時のエリートが、よくぞ“蕃地”にとどまって、彼らのふところへ飛び込んでいったものである。業界ではそんな彼を「職務に厳格な一面、豊かな人情味があり人使ひがうまい」「意の人、熱の人」(『糖業』昭和十二年第十一号より)と評している。

 一九二一(大正一〇)年六月十五日には、高雄州の知事や警察関係者、原住民の頭目らを招き起工式にこぎつけた。雨期には建材の調達、導水路の荒掘りを続け、十一月の乾期に入って川の水が干上がると、河床を一気に掘り下げ堰を埋設し、導水路工事にかかった。一九二二(大正一一)年六月に通水テストを実施。全長二八二〇メートルの導水路から第一分水工へ。そこから灌漑幹線を三方へ延ばし、さらに支線、小支線を補って、二四八三ヘクタールに及ぶ農地に水がゆきわたるよう工夫した。

潮州郷に住む劉恩徳(りゅう・おんとく)(61)さんの祖父は、導水路の工事に参加した。

「掘り出した土は牛車に積んで運び、山から採ってきたシダやバナナの葉を地面に敷き詰め、土管をすべらせながら運んだそうですよ」

 開墾も困難を極めた。総督府が払い下げたのは大小無数の石ころが固まった荒蕪地だったから、原住民に協力を申し入れ、岩や石を取り除く作業を入念に行った。山から下りてきた若者たちは、五日間働いて二日だけ家族のもとへ帰り、また五日働くというローテーションで働いた。彼らの日給は六十二銭。工事が終わる頃には原住民の生活も大きく変わった。総督府の移動交易所が開かれると、釘や農具や布を買う人が集まり、中には手提げ金庫を買ったり、郵便貯金に励む人も出たほど。白く光る一円銀貨に人気が集まったのは、祭礼用の冠に鳥の羽根やユキヒョウの毛皮とともに飾るためだった。一円銀貨を加えることが、すっかりファッションとなったのである。

 整地が終わると、こんどは強力なスチーム・プラウ・エンジンで深耕用のカッターが草木の根もろともコンクリート状の土層をタテに切り、2メートル近く掘り起こした。

 一九二三(大正一二)年五月、すべての工事を終了。総工費は約六十五万千五百円。当時の『台湾日日新聞』から物価を拾い上げると、稲穀百斤が五円、鰻丼が七十銭。キャラメル一箱五銭。台湾の物価変動から推測すれば、工事費は現在の六億〜七億円といったところか。なお、地下ダムは山本悌二朗社長の雅号「二峯」にちなんで「二峰圳」と名付けられた。 信平は休む間もなく次の工事に取りかかり、その後三年かけて新たに一七〇〇ヘクタールの「大*営農場」を開墾した。
 二峰圳の設計は、水を砂礫地に溜めて濾過する「人工涵養」というアイディアにつながっている。つまり、地下で堰き止めた水が涵養池の役をして、伏流水をさらに増やしていく。その過程で濾過されていくので、清涼な水を大量に確保することができるわけ。伏流水をこのように大規模利用した灌漑施設は例がなく、極めて斬新な試みだったため、一九三六(昭和一一)年、鳥居信平は農業土木の関係者として初めて、日本農学賞を受賞した。

 鳥居信平の功績はそればかりでない、と話すのは、治水の専門家高須俊行(80)さんだ。戦前の台北帝大農業土木科に学んだ高須さんは、学生時代に実習で林辺渓を訪れている。

「作物に必要な水量を数値化した点が、鳥居信平の大きな功績ですよ。当時まだ台湾では研究されていなかった輪作体系と作物の用水量について、実施状況、現地試験、現地の土壌や気象を勘案して、具体的な数値をはじきだしたのですから」

 用水量は、作付け面積や作物を左右する。信平が計算した数値はその後、台湾で行われた灌漑工事計画の基礎になったことは間違いない。農業土木の専門家だった信平は、新しい農場に移住してくる人々が、サトウキビを栽培しながら米を自給自足できるように配慮した。そのため設計の段階から、乾期にはサトウキビ畑、雨期には水田へ、余った水は雑作(緑肥やイモなど)用の畑にまわすよう分水工を設けて輪作を取り入れた。

 信平が実施した輪作法を、さらに大規模に、綿密に、組織的に実現したのが、総督府土木課技師を務めていた八田與一だった。彼は、多くの困難に直面しながらも、セミ・ハイドロリック・フィル(半水成式工法・コンクリートではなしに、玉石や砂利、粘土を多用して大堰堤をつくる)方式を採用して東洋一の烏山頭ダムを造り、嘉南平野に網の目のような水路を完成させた。確保した水は約五万ヘクタール分だったにもかかわらず、十五万ヘクタールの豊饒な農地が生まれたのは、水路系統に従って約一五〇ヘクタール単位の輪作区に分け、各区をサトウキビ、米、雑作用にさらに三等分して、一年ごとに順番に作付けして灌漑したからである。最終的には急速に普及した改良種の「蓬莱米」のみごとな水田が続く穀倉地帯となり、この大型公共工事は、大成功を収めたのだった。
 入社から二十四年目の一九三四(昭和九)年、信平は取締役に就任したものの、一九四〇(昭和一五)年に離台。五十七歳の働き盛りで後進に道を譲ったのは、視力が年々衰えてきたためである。無理もない、二十年近く紫外線の強い屋外で仕事をし、工事現場では爆風を数えきれぬほど浴び、夜はランプの煤に目をしばたきながら、設計図を書くなど細かい仕事をし、水の悪い奥地で暮らしたのだから。原住民との親交に役だった小米酒も飲み過ぎれば健康に悪かった。

 『台湾製糖』に勤めた約二十五年間、鳥居信平は科学の心をもって実践躬行(じっせんきゅうこう)。約六十ヵ所の水利施設と三万ヘクタールの荒れ地を改良した。一企業の枠を超えて台湾の人々に感謝されているのは、彼が手がけた多くの工事のおかげで、今も二十万人を超える住民が灌漑や飲料水の恩恵を受けているからだ。 

 サトウキビの増産や自社農地の拡大という社命があったとはいえ、80数年前の南台湾の山奥で、よくぞ難工事を貫徹したものだ。いったい何が、信平を突き動かしていたのか? 

 それは戦前のエリート教育にも由来する。エリートの予備軍が集まる旧制高校や帝国大学では、私利私欲を排して公益に尽くす気概や国造りの大志を教えていた。そればかりではない、日本の伝統的な徳目である信義、勇気、仁、克己心、礼節といった心の教育も怠らなかった。台湾に多くの人材を送った札幌農学校(後の北海道帝国大学)もしかり。クラーク校長はあるとき、黒田清隆開発長官に「校則は必要ない。 Be Gentlemanで十分である」と言った。「紳士たれ」。この言葉は、理論や信条を並べ立てるより、紳士としての行いを自分で考え行動で示せ、と学生に説いたものである。

 戦前の台湾は、植民地としての影の部分も確かにあったが、「多くの日本人が、台湾のために献身的に働いてくれた」と、今もお年寄りは評価する。それはとりもなおさず、官民問わず優れた人材が台湾に集まり、高い理想と科学の心をもって国造りを実践躬行した証しではないだろうか。実際、民政長官時代を振り返った後藤新平が、台湾経営の成功の理由を聞かれて「優秀な技術者を重く挙げ用いた結果」と明言している。

 鳥居信平に関してひとことつけ加えれば、袋井市の原田英之市長が指摘するように、「報徳運動も多少関係していたのかもしれない」。報徳運動とは、小田原出身の農学者二宮尊徳(一七八七〜一八五六)が掲げた思想をもとにした道徳運動のことである。人間としてのまことの道は、世の中のためになることをまず実行すること。村や社会が豊かになれば、個人の幸せにもつながり、心も豊かになると言う教えだ。「報徳社」のある掛川、愛野、袋井一帯の農民は、昔から報徳運動の感化を受け、質素、倹約、至誠の生活を心がけてきた。子供時代から信平も家庭や地域の教えとしてなじんでいたろうし、農業土木の専門家として二宮尊徳を尊敬していたことはありえぬ話ではない。農民の幸せや公益を優先する報徳運動の教えは、信平を通じて二峰圳にも息づいていると思いたい。
 東京へ戻った信平は、土地改良の専門家として設立されたばかりの「農地開発営団」の副理事長に就任した。内務省と農林省の後押しで八郎潟の干拓事業を推進することになったが、戦局の拡大が響いて頓挫。敗戦後は復員兵を受け入れる開拓村の開墾をまかされる。一刻の猶予も許されぬ仕事に忙殺された信平は、一九四六(昭和二一)年二月十四日、会議中に突然脳溢血の発作を起こし、翌十五日に死去。享年六十三歳だった。

 目元に信平の面影が重なる末っ子の貝島峰子さん(87)には不思議な思い出がある。亡くなる前日、嫁ぎ先の渋谷区幡ヶ谷の家に、ふらっと信平が立ち寄ったのである。

「あらっ、お父様、いらっしゃるなら御連絡を下さればよいのに・・・・お夕食でもいかがですか?」

こう話しかける峰子さんに信平は「いや、いいんだ、ちょっとみいちゃんの顔が見たくなったんだ」とだけ言って、すぐに帰ってしまった。

「なぜ用もないのに父はやってきたんでしょうか? 亡くなった後からしきりに考えました」

 信平の長男、鉄也(90)さんは、父親のことを仕事一途の人間だったと振り返る。家族といっしょに過ごす時間よりも仕事を優先させた父親に、寂しさと恨みがましさを抱いていた幼い頃。「オヤジには”蕃人”の嫁さんがいる、と、友達にさんざん悪口を言われましたよ」

 やがて東京の中学に転入し台湾を離れた鉄也さんは、つい数年前まで「オヤジの仕事に何の興味もなかった」。ところが、二〇〇五年に来日した国立屏東科技大学の丁教授らに会い、父親の遺した功績を知らされた。

信平の二峰圳工事と鉄也さんがライフワークにしていた極地調査。大きな覚悟と勇気をもって果敢に挑戦した父と子の姿は、メビウスの輪のように連なっている。

「結局、私はオヤジの真似をしていたんですな。研究室を飛び出して南極に通って、調査に明け暮れて・・・」

 信平に負けず仕事に没頭した鉄也さんは、生まれ故郷の屏東を訪れる機会を失った。幼年期の記憶に刻印されたのは、製糖の季節になると街中に漂った官能的な糖蜜の匂いだ。「もう一度あの匂いを嗅いでみたい・・・」。心のひだからにじみ出てきた強烈な郷愁。私は鉄也さんの彼岸を見るようなまなざしに、人生を刻む歳月の重みを実感した。

 冒頭に書いたように、『奇美文化基金会』(許文龍会長)から信平の胸像が日台双方に寄贈されると決まったとき、鉄也さんは誰よりも喜び信平の墓がある袋井市に相談を持ちかけた。すると、原田市長は「外国の人が昔の日本人の功績を忘れずに称えてくれる。なかなかできることではありません、その心が何よりも嬉しいじゃありませんか」と、これまた熱き心で応えたのだった。


 二〇〇八年十一月、胸像と対面するために、袋井の有志の方とともに台南県の『奇美文化基金会』へ向かった。胸像になった信平は、仕事に厳格な技師でもいかめしい重役でもなく、久しぶりに社宅に戻って子供たちと過ごす父親の表情をしていた。幼子に慈愛のまなざしを向ける素顔の信平が、私たちの目の前にいた。

「正面向きの写真しかなかったので苦労しました。横顔の感じが似ていそうな人を見つけてモデルになってもらったんです」(許文龍さん)

ご存じのように許文龍さんは、「戦後生まれの台湾人と日本人に、正しい認識を広めたい」との思いから、台湾の歴史を検証し、台湾のために貢献した日本人の功績を顕彰して、双方の戦後世代に知らしめる活動を続けている。その一環として、第四代総督児玉源太郎のもとで民政長官を務めた後藤新平(一八五七〜一九二九)、台南の史跡を軍部や空爆から守り抜いた最後の台南市長羽鳥又男(一八八二〜一九七五)、明治から大正期にかけて恩師のスコットランド人バートンとともに、台湾各地で上下水道普及に努めた浜野弥四郎(一八六九〜一九三二)、台湾の紅茶の発展に寄与した新井耕吉郎(一九〇四〜一九四六)の胸像を制作。そこへ、鳥居信平が加わることになった。

 返す返すも残念なのは、完成直前の十月十六日に鉄也さんが持病の悪化によりに亡くなったことである。この胸像を目にしていたら、遠い昔の父へのわだかまりが、すべて氷解したに違いない。


 昨今、中国共産党と急接近する台湾の馬英九政権に対し、日台関係を危ぶむ声も上がっている。しかし、先人が築き上げた普遍的な価値観を共有し、双方の努力と熱意で交流を活発にすれば、必ずや心と心が寄り添っていく。

 袋井市では、地元住民、市議会、教育委員会などが一丸となり、郷土の偉人を子供たちに知らしめる活動を開始。胸像の除幕式を二〇〇九年に予定している。