平野久美子 TOP TOPICS JORNEY TAIWAN DOG BOOKS TEA
日台の知られざる水の絆の物語 〜 「鳥居信平」
社団法人土地改良建設協会の機関誌『土地改良』2008年7月号(262号)の巻頭で紹介文
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日本初の地下ダムを造った水利技師 - 台湾が今も語り継ぐ鳥居信平 -
 近年、世界のいたるところで水が危機的状況にさらされている。爆発的な人口増加や工業化によって、雨水循環のバランスが崩れ水資源の枯渇が起き、公共財であるはずの水の奪い合いが起きているのだ。
 日本の隣国、台湾でも水を巡る異変が深刻だ。東部の宜蘭県や南部の雲林県、屏東県では1970年代後半から大量の水を消費する工業団地や魚の養殖場が急増したため、海水の水位が地下水層より高くなって塩害がや地盤沈下が続出している。行政院水利局によると、1994年に71億トンもあった地下水量が、2003年には55億トンに減少したという。もし、このまま地下水を使い続けると、20年後には工業団地も養魚場も、水不足のために立ちゆかなくなるという試算まで出ている。
 台湾の現状が、私たち日本人にとって他人事で済まされないのは、養殖場のエビやウナギのほとんどが日本へ輸出されているという事実である。経済がグローバル化すると、他国で起こったことが自分たちの生活に直結するようになる。
こうした環境異変が、これからお話しする鳥居信平(1883〜1946)を甦らせた。この日本人技師にまず注目したのは、台湾の水利専門家や環境問題に関心の深い市民たちだった。台湾南部の屏東県に、鳥居信平が80数年前に造った「二峰圳」は、埋設されている上に日本統治時代の民間会社の設備だったために、長い間、研究者の間でも知られていなかった。昨今、熱い視線を集めているのは、鳥居信平の工法が、環境負荷が少ない生態工法に通じているからにほかならない。

 私が鳥居信平の名前を初めて聞いたのは2007年4月のこと。台湾最南端に位置する屏東県政府から招聘を受けて1ヶ月ほど一般家庭に滞在し、暮らすように旅をし、旅をするように暮らす機会を得、曹啓鴻県長を表敬訪問したときだった。
「鳥居信平、という日本人をご存じですか?」
いきなりこう聞かれたが、まったくの初耳だった。
「1923年に、独創的な地下ダムを造った技師ですよ、我が県の中学校では、副教材の中で彼を取り上げています」。
 県長は地図を広げて熱心に説明を始める。
「ダムのある林辺渓の流域は、台湾でも地下水が豊富な地域です。川の下を流れたり、また表面に出たりする伏流水の性質を利用した鳥居信平は、風景や生態系を壊さず環境に配慮してくれたのです。彼の工法は、ほんとうに素晴らしい」
 鳥居信平は、見方によっては植民地政策の代表企業『台湾製糖』の社員だった人物だが、屏東県では、彼の設計した地下ダム「二峰圳」のおかげで、今も20万人以上の人々が恩恵を受けている。曹県長の話しを聞きながら、台湾のお年寄りの口癖、「戦前の日本人は、ほんとうによくやってくれた」という言葉が頭をよぎった。
 鳥居信平という技師は、どのようにして画期的な灌漑施設を造ったのだろう? 素朴な疑問がふつふつと湧き出し、「二峰圳」をいつか取材してみたいと思いながら4月末にいったん帰国した。
 2007年の9月、私は屏東市に戻ってきた。現在の人口は約21万6000人(20008年度)。田舎町の風情であるが、戦前は『台湾製糖』の本社と陸軍第八飛行連隊の駐屯地があったため、多くの日本人が住みつき、港湾都市高雄とは別の賑わいを見せていた。今もサトウキビを運搬した軽便鉄道のレールがところどころに残り、かつての繁栄が偲ばれる。
 迎えに来てくれたのは、信平の工法を学生時代から研究している国立屏東科技大学土木工程系教授の丁圳士教授。いつも河川を歩き回っているだけあって赤銅色に日焼けしている。84歳になる彼の父親は今も不自由なく日本語を操るが、戦後生まれの丁教授はわずかの単語しかわからない。
 翌朝、市内から二十キロメートルほど離れた林辺渓へ向かった。上空では風がかなり吹いているのだろう。低く広がる灰色の雲がせわしなく動き、切れ間から薄い水色の空が見える。雨上がりの蒸し暑さが雲の動きに合わせ、だんだんに和らいでいく。
 20分ほど車を走らせると、道路の両側は見渡す限りの農園となった。
2002年に製糖事業から撤退した国営会社の『台糖』が、農地を一般農民に貸し付けてバナナやマンゴーを栽培したり、マホガニーやタイワンヒノキを育てているのだ。
「80数年前の灌漑システムが、まだ活躍していますよ」
 丁教授が車を減速すると、果樹園の中を縦横に駆け抜ける導水管が見えた。1914(大正3)年、初めて鳥居信平がこの一帯を視察に訪れたときは、人間を寄せ付けぬ荒蕪地だったはず。青年技師は、南台湾の荒ぶる自然を眺めながら、自分に与えられた使命の重さを噛みしめたのではないだろうか。
 車はやがてパイワン族の住民が多く住む来義郷へ入った。
「戦後、清潔な飲料水を求めて山から移り住んだ人々は、地下ダムの工事に参加した人の子孫がほとんどです」(丁教授)。
 クリスチャンの多いこの村では、赤ん坊が生まれると3日目に用水路の水で身体を洗い、小米(粟)の先端で耳たぶを突いて洗礼式を行う。用水路の水は「聖水」なのだ。清冽な水を手のひらですくって飲んでみると、活力があって柔らかい!ちょうどそこへジープが止まり、 ポリタンクを手にした青年が降りてきた。
「台北から水を汲みに来たんですよ」
「ほんとですか? 片道5,6時間はかかるでしょう?」
「ええ、でもここの水は旨いと有名なんですよ」
 これにはまったく驚いた。
やがて、私たちを乗せた車は来義大橋を渡り、林辺渓の岸辺に停まった。源を大武山に発する林辺渓は、林辺市を通って台湾海峡に注いでいる。1キロメートルごとに6メートルの落差が生まれるほど勾配が急な川で、全長は約42キロメートル。流域面積は約342平方キロメートルに及ぶ。車を降りると、パイワン族が聖なる山と崇める大武山系が目の前にそびえていた。標高3000メートルを超える山々の霊気があたり一面をおおい、濃厚なフィトンチッドが深呼吸を誘う。昨夜来の雨で黄土色になった濁流の音が、深閑とした森に吸い込まれていく。
「ほら、あれが地下ダムです。八十数年の間に川底が少しづつ削られたので、堰の上部が見えるようになりました」
 川の中に堰が見えた。台湾では“地下ダム"という言い方をしているが、もちろん、大規模なダムが地中に埋まっているわけではない。地下堰提を設置し伏流水を堰き止めているから、英語のDam(水を堰き止めるものの意味)にちなんでこう呼んでいるのである。
 次に給水塔の地下を覗くと、川の水とは似ても似つかぬ清流が流れている。
「農業用水として飲料水として、一日あたり、雨期なら12万ト立方メートル、乾期でも約3万立方メートルの供給量を保っています」と丁教授。地下に堰を設けて取水しているから雨期にどんなに豪雨が降ろうとも水は濁らず、乾期でも安定した水量が確保できる。しかも、ダム底部に土砂が堆積しないので維持管理にお金がかからない。戦後、二峰*の維持管理は、屏東県政府と国営企業の『台糖』の両者が、共同で行ってきた。毎年、補修点検をしているが、これまでに大規模な修理は台風の被害を受けた三回だけ。普通のダムに比べてはるかに管理がたやすい。1世紀近くも昔に、周囲の自然環境を破壊することなく、水の性質や地形を利用した持続可能な工法が台湾で実施されていたことに、驚きの念を禁じ得ない。 
 少し話しが前後するが、2007年の6月、都内にある鳥居邸に、ご子息の鉄也(90)さんを訪ねた。広くなだらかな額、柔和な瞳が写真で見ていた鳥居信平にそっくりだ。鉄也さんは、私が小さい頃憧れた南極越冬隊の、隊長を二度も務めた地球化学者で、南極の大気中の二酸化炭素濃度の変化や極地の湖沼水の研究を手がけたことで知られている。大正時代に北回帰線を越えて南へ下り、熱帯の荒れ地へ分け入った父、その子息はさらに南へ、南の果ての南極まで下り、69歳になるまで28回も日本と南極を往き来したのである。
「小さい頃育った環境がよっぽどよかったんでしょう。自然環境に恵まれた土地で、人間としての成長期を送ることは、きわめて大切なことなんです」
 今日まで元気でいられるのは台湾で生まれ育ち、新鮮な果物を沢山食べて育ったおかげだと信じている鉄也さんだが、父親の仕事に関しては2004年に台湾の研究者が訪ねてくるまで、「特別の関心もなかった」と話す。
 鉄也さんの話しによれば、父親の信平は、1883(明治16)年1月4日、静岡県周智郡山梨町(現在の袋井市)の裕福な農家の三男として生まれた。袋井市は、良質の清酒や豆腐、茶を生産し水のきれいな地域として知られている。後に彼が伏流水に目をつけたのは、育った環境のおかげかもしれない。
 優秀な成績で地元の中学を終えると金沢にある旧制第四高校(四高)に進学した。この旧制高校は強健な学風、剛気な気風で知られ、 南下軍の歌「啻に血を盛る」(明治40年)は、旧制高校の寮歌の中でも有名だ。政財界に多くの逸材を出しているが、興味深いのは後に台湾で「嘉南大圳の父」と呼ばれる八田與一が、信平が卒業した1904(明治37)年に、旧制第四高等学校へ入学し、その後同じように東京帝国大学に進学していること。台湾を舞台に技師として活躍する二人の人生は、この頃からつかず離れず、重なり始める。
 信平は東京帝大農科大学を卒業すると農商務省農務局に就職。その後、天然資源の宝庫として注目された清国山西省の農林学堂教授を務め、帰国後は徳島県技師となった。
 やがて転機が訪れる。台湾製糖(株)からのスカウト話が飛び込んだのだ。
「父が台湾に渡ったきっかけですか? 恩師の上野英三郎先生のお薦めが大きかったことは間違いありません」(鉄也さん)
 上野英三郎(1871〜1925)博士は、ご存じの通り日本に於ける近代的な農業土木、農業工学の創始者であり、「忠犬ハチ公」の飼い主としても知られている。
 東京帝大の教授と農商務省の技師を兼務していた博士は、早くから台湾の水利事業に関心を寄せ、現地を視察して総督府の殖産、土木行政に提言をしていた。
 信平のスカウト話しが持ち上がった頃の、台湾の製糖業はどんな状況だったのか?
台湾は言わずと知れた台風の通り道だから、毎年大きな被害が出る。中でも1911(明治44)年、1912(大正元)年と2年続きで南台湾を襲った大型台風は甚大な被害をもたらした。台風が去った後も泥流に呑まれたサトウキビ畑からはなかなか水が引かず、病虫害が発生。農民の士気はすっかり落ちて、折から米価が上がったため、サトウキビから米作りに転業する農家が相次いだ。そのため原料の確保もままならぬ事態になったのである。
 陶業界の危機を乗り切るために、台湾総督府は風雨に強い優良品種の育成に務め、糖業試験場や蔗苗養成所を各地に作る。と同時に、製糖会社も土地改良、灌漑と排水システムの改善などを推し進めることになり、農業土木の専門家が求められたのだった。
 『台湾製糖』の社長山本悌二郎(1870〜1937)と親交のあった上野英三郎博士が、愛弟子を『台湾製糖』に推挙したとしても不思議はない。博士は、鳥居信平なら山積みの課題を解決できるとふんだのだろう。
 1914(大正3)年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まったその年に、鳥居信平は新婚の妻まさや徳島県でいっしょに働いていた技師たちを同行して、北回帰線(北緯23度27分)を越え南へ南へと下っていった。ちなみに旧制四高から東京帝大土木科へ進んだ八田與一は、信平よりひと足先に、1910(明治43)年に台湾総督府土木部技手を拝命して渡台。信平が台湾にやってきた1914年には総督府土木局の技師に就任、その後二人は、ほぼ25年にわたり、台湾の治水事業分野で活躍をした。二人が名前を残すことになった「萬隆農場の土地改良」と「烏山頭ダムと嘉南大*の灌漑事業」は、どちらも1919(大正8)年に立案、ほぼ同時期に工事にとりかかっている。
 農事部に迎えられた信平は恩師の教え通り、経済性の良い灌漑設備を造るべく、ただちに水源、土壌、作物の用水量の科学的調査を開始する。
 大正時代初めの台湾はまだ治安が悪く、総督府に帰順しない原住民や毒蛇が侵入者の命を狙う。8種の法定伝染病と風土病(マラリア、デング熱)も猛威をふるっていたから、大変な作業だったろう。信平らはマラリアの特効薬キニーネを持参して、山の奥へと分け入った。1918(大正7)年からは、仏印やオランダ領インドネシア、英領ビルマなどの水利行政とサトウキビの栽培事情を視察して多くの情報を持ち帰り、地元のデータとつきあわせ、調査をさらに続けた。
 地下ダムを造るためには、地盤沈下が起こらないような堅牢な地層、止水壁を建設するのに都合のよい基盤構造、貯水域に補給できるだけの降雨量と地下水、以上3点が絶対条件だ。綿密な調査をした結果、粘板岩系沖積地帯に属する林辺渓一帯は地下ダムの条件を備えていることや伏流水が屏東平原の海抜15メートルの地点まで途切れることなく流れていることをつかんだ。次に、河床の垂直変動が最も少なく、安全を期して地下堰を埋設できる地点を測量し、プンティ社渓とライ社渓という2つの渓流の合流点に決定した。 
 信平が頭を悩ませたのは、河床をどれくらいの深さに掘って堰を埋設すれば安定して水を確保できるかという点。伏流水の動向勾配線が最急の場合63分の1であることに注目した彼は、流れの角度を念頭に河床を掘る深さを決める。乾期が半年間あるとはいえ、地下の水面下ではかなりの出水が予想されることや、基盤層まで開削するには困難が伴うこともあり、結局、7,27メートルまで河床を掘り、堰を埋めることにした。彼は林辺渓をあたかも生き物のようにとらえ、伏流水の性質を科学的、実際的に分析研究して地下ダムの設計図を練り上げた。
『台湾製糖』が、新しい自社農場開設に意欲的だったのは、大正8年に計画が発表された嘉南大圳とも少し関係がある。15万ヘクタールの農地を灌漑するという前代未聞の事業に糖業会社も出資をしていたものの、完成はまだ大分先のこと。そのため自社農場を広げサトウキビの安定供給を図るために、総督府から払い下げになった林辺渓付近の荒蕪地とともに周辺の土地を買収して、自力で開墾することにしたのだ。 
 1919(大正8)年からは家族を屏東市の社宅に残し、建設予定地に単身赴任した信平。地下ダムの建設は、いよいよ1921(大正10)年6月から始まった。乾期にあたる10月から翌年の5月の間は川の水が干上がるので、「開削工法」によって河床を一気に掘り下げ、長さ327,6メートルの堰を埋設した。次に、半円形の土管を使って全長約17,7キロメートルの導水路を作り、第一分水工からまたさらに暗渠を三方へ伸ばし、さらに約57キロメートルの支線、小支線を補って、128平方キロメートルの扇形の流域に灌漑がゆきわたるよう工夫した。
現在も来義郷に住む劉恩徳(61)さんの祖父は、暗渠のトンネル掘りに参加した。
「掘り出した土は牛車に積んで運び、山から採ってきたシダやバナナの葉を地面に敷き詰め、半円形の土管をすべらせながら運んだそうですよ」
 農場予定地の開墾も困難を極めた。南部の沖積層は中部とは違い、大小無数の石ころがコンクリート化して非常に固い。そこで、信平は地元の原住民に協力を申し入れ、まず整地作業を行った。近隣の集落から集まった若者たちは、5日間働いて2日だけ家族のもとへ帰り、また5日働くというローテーションで働いた。当時、原住民たちに払われた日給は62銭だった。
 岩や石を取り除く作業が終わると、こんどは強力なスチーム・プラウ・エンジンで深耕用のカッターが草木の根もろともコンクリート状の土層をタテに切り、2メートル近く掘り起こす。現場の指揮と原住民の説得にあたった信平は、ときには頭目の家でシカ肉やタケノコを肴に小米酒(粟のどぶろく)を飲み、そのまま酔いつぶれたこともあっただろう。酒が何よりも好きだったとはいえ、東京帝国大学を卒業した当時のエリートが、よくぞ“蕃地"にとどまり、原住民のふところへ飛び込んで行ったものである。彼らの大切な狩り場や漁場に配慮して設計したことが信頼につながったのではないだろうか。
 工事が終わる頃には原住民の生活は大きく変わった。総督府の移動交易所が開かれると、釘や農具や布を買う人が集まり、中には手提げ金庫を買ったり、郵便貯金に励む人も。白く光る一円銀貨に人気が集まったのは、祭礼用の冠に、ワシの羽根やシカの角、ユキヒョウの毛皮とともに飾るためだった。それが当時、部族の間で流行し、ファッションとなったのである。
 1922(大正11)年6月には導水路の通水試験を行い、1923(大正12)年5月に付属の堤防や排水工事がすべて終わった。総工費は約65万1500円。新しい灌漑施設は『台湾製糖』の山本悌二朗社長の雅号「二峯」にちなんで「二峰圳」と名付けられ、以後、豊水期には約25万トン、乾期には約7万トンの農業用水を供給した。信平は休む間もなく、1923(大正12)年9月から南部の力力渓の地下水を使って工事に取りかかり、翌年5月には導水路を完成。その後3年かけて、新たに1700ヘクタールの「大圳営農場」を開墾した。伏流水をこのように大規模利用した灌漑施設は例がなく、きわめて斬新な試みだったため、1936(昭和11)年、鳥居信平は農業土木の関係者として初めて、日本農学賞を受賞している。
 ここで、鳥居信平の業績に対する専門家の意見をご紹介しよう。高須俊行(80)さんは、戦前の台北帝大農業土木科に学んでいた頃、実習で林辺渓を訪れている。水源を伏流水に求めた斬新な計画、大区画農場の整備、輪作に必要な水量を詳細に調査していることに強く感銘を受け、興味深く見学したことを今も思い出すと話す。
「作物に必要な水量を数値化した点は、彼の大きな功績です。当時まだ台湾では研究されていなかった輪作体系と作物の用水量について、実施状況、現地試験、現地の土壌や気象を勘案して、具体的な数値をはじきだしたのですからね」
 用水量は、作付け面積や作物を左右する。信平が計算した数値はその後、台湾で行われた灌漑工事計画の基礎になったことは間違いない。農業土木の専門家だった信平は、農場に移住してくる農民が、サトウキビを栽培しながら米を自給自足できるように配慮した。そのため設計の段階から、乾期にはサトウキビ畑、雨期には水田へ、余った水は雑作用の畑にまわすよう分水工を設けて輪作を取り入れたのだった。
 信平が実施した輪作法を、さらに大規模に、綿密に、組織的に実現したのが、総督府土木課技師を務めていたあの八田與一でだ。彼は1919(大正8)年から嘉南大圳の工事にとりかかり、多くの困難に直面しながらも、セミ・ハイドロリック・フィル(半水成式工法・コンクリートではなしに、玉石や砂利、粘土を多用して大堰堤をつくる)方式を採用して東洋一の烏山頭ダムを造り、嘉南平野に網の目のような水路を完成させる。総督府は当初工事期間を6年と見積もったが、泥土や石油の噴出、ガス爆発などが相次ぎ、結局完成は10年後の1930(昭和5)年にずれこんだ。総工費は5545万9000円。そのうち約半分が国庫補助、残りは嘉南大圳組合が負担した。
 ダムを造って確保した水は約5万ヘクタール分だったにもかかわらず、15万ヘクタールの豊饒な農地が生まれたのは、水路系統に従って約150ヘクタール単位の輪作区に分け、各区をサトウキビ、米、雑作(緑肥やイモなど)用にさらに三等分して、1年ごとに順番に作付けして、灌漑したからである。今まで、どうしても農民は買い取り価格の高い米作を優先していたが、次第に米とサトウキビが競合することなく収穫できるようになった。最終的には急速に普及した改良種の「蓬莱米」のみごとな水田が続く穀倉地帯となって、この大型開発は大きな成果をあげたのだった。
1934(昭和9)年、信平は入社から24年目で取締役に就任。1937(昭和12)
 年に常務取締役になったものの1940(昭和15)年に離台。57歳の働き盛りで後進に道を譲ったのは、眼病のため視力が年々衰えてきたためである。
『台湾製糖』に在籍した約25年間、鳥居信平は農業工学を取り入れて、約60ヵ所の水。利施設と3万ヘクタールの農地を改良した。一企業の枠を超えて台湾の人々に今も感謝されているのは、彼が手がけた多くの改良工事のおかげで、周辺住民の農地まで灌漑が行きわたり、清潔な飲料水が確保できたからだ。
 信平は、1941(昭和16)年に設立された「農地開発営団」の副理事長に就任。内務省と農林省の後押しで八郎潟の干拓事業を推進することになったが、地元の反対や物資不足もあり、計画は頓挫。戦後は復員兵を受け入れる開拓村の開墾をまかされる。敗戦直後の混乱の中で、仕事に忙殺される日々。信平は、1946(昭和21)年2月14日。打ち合わせの最中、突然、脳溢血の発作を起こす。すぐにかかりつけの医師が手当てをしたが、そのかいもなく翌15日に死去。享年63歳だった。
「オヤジは働きづめの人生でした。楽しむことを知らずに逝ってしまった。ほんの短い間でも、母と二人でのんびり過ごすなり、人生をもっと楽しんで欲しかったと、つくづく思います」(鉄也さん)
 ところで、「二峰圳」と似たような地下ダムは、戦前、内地にも造られていたのだろうか? 実は、愛知県春日井郡(現在の春日井市)の、庄内川の支流にあたる内津川に地下堰提を設け(1934(昭和9)年5月竣工)、地下水を利用して水田に灌漑した記録がある(『土地改良事業計画基準 第3部設計 第4地下水工』農林省農地局編)。1943(昭和18)年に那須の扇状地に地下ダムを造ろうという構想が持ち上がったものの、諸般の事情で断念、戦後の1973(昭和48)年に、長崎県野母崎町(現在の長崎市)に「樺島ダム」が完成するまで、地下ダムは登場しなかった(現在、樺島ダムは機能していない)。つまり、植民地だった台湾に造られた「二峰圳」が、日本の地下ダム第一号であり、戦前から現在まで活躍している唯一のものということになる。
 沖縄宮古島にある地下ダム「皆福ダム」の調査、設計、施工に関わり、現在社団法人の「農村環境整備センター」に勤務する専門家の富田友幸さんは、鳥居信平が徹底的な現地調査をし、降雨量、土壌、地理的、水文的条件をふまえて、地下堰堤を造ったことを高く評価する。
「河床礫層の透水係数が76cm/secということは、宮古島の琉球石灰岩の200倍に相当します。林辺渓の伏流水は、まさに地下を川のごとく流れていたんでしょう。その豊富な伏流水を、乾期の水源として利用できたのは、信平が地道に行った調査と努力のたまものです」(富田さん)
 屏東県では、二峰圳の工法を参考にして、洪水であふれた林辺渓の水を人工池に溜め、地下水を増やすことで地盤沈下を防ぐ七カ年計画を始めた。地下水の人工涵養だ。また、高雄県との県境を流れる高屏渓の支流では、取水堰を造り、表流水と伏流水を取り入れる工事が始まっている。さらに、大甲渓や老農渓でも、信平の発想を取り入れた取水工の計画が進行中だ。

2005年、屏東県来義郷の森林公園内に「水資源文物展示館」がオープンした。そのセレモニーでは、信平の孫にあたる東京大学教授の鳥居徹(52)さんも日本から招待され、当時、二峰圳の工事に携わった原住民の子孫と対面し、80数年前の絆を確かめ合った。
 さらに嬉しいことには、日本統治時代に台湾民衆に貢献した日本人を顕彰する活動も行っている「奇美文化基金会」(本部台南・許文龍会長)が信平の胸像制作を進めている。早ければ来年早々にも、信平の生誕地である静岡県袋井市に、信平の胸像が設置されるだろう。袋井市の原田英之市長はしみじみと語る。「外国の人が、昔の日本人の功績を忘れずに称えてくれる。なかなかできることではありません。その心が何よりも嬉しいではありませんか」
台湾人は、水は初めから「在る」ものではなく、「生み出す」ものであることを知っているから、水の恩人を決して忘れないのである。
地元の袋井市では、もっか、どのように郷土の偉人を顕彰し、市民レベルで進める日台交流のきっかけにしようか検討中という。
日本時代の遺産を台湾の未来に活かそうとする台湾の人々の努力、その熱き心をしかと受け止めようとする日本側の誠意は、両国の交流の深さの表れ、と言えよう。
                  
 いま、私たちが目指すべきことは、健全で恵み豊かな環境が、生活の場から地球全体にわたって保全されること。それらを通じて誰もが幸せを実感し、次の世代にその恩恵を確実にバトンタッチすることではないだろうか。そうすることで、水を大切に育んできた先人に、恩返しができると私は信じている。