平野久美子 TOP TOPICS JORNEY TAIWAN DOG BOOKS TEA
145年の時空を超えて ― 牡丹社事件遺族の気持ちが、台湾に届いた ―
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  2005年2月。台北に遊学していた私は、何気なくつけたテレビのニュースに思わず見入った。それは、「牡丹社事件」の台湾側関係者が、6月に沖縄を訪れるという内容だった。1871年(明治4)年、台湾南東部に漂着した琉球民のうち54名が原住民に殺害されたこの事件は、言葉が通じぬことから誤解が生まれて起きた悲劇である。報道によると、加害者と被害者双方の末裔が面会し和解に臨むという。そんなドラマのようなことが実現するのだろうか? 私は半信半疑で画面を見つめた。

 6月16日から18日にかけて。台湾のメディアは双方の関係者が那覇で面会を果たし、末永い友好を誓いあったと大きく伝えた。台湾側が殺害を、日本側が出兵の許しを表明した報道に触れて、胸が熱くなるのを覚えた。
 以来、牡丹社事件への関心を深めた私は、2007年、県政府の招きで屏東市に滞在したとき、悲劇が起きた付近の双重渓や、征台の役に参加した日本軍がパイワン族と戦った古戦場跡を訪ねた。惨劇を目撃した山並は、あの日と同じにそそりたっている。現場に佇むと、死者の魂が降臨してくるような、不思議な気配に包まれた。
台湾では、琉球の人々の遭難事件および日本軍の台湾出兵をひとまとめにして、「牡丹社事件」と呼ぶ。それにならって簡単に事件のあらましを記しておこう。

屏東県統捕に今も建つ琉球墓。1871年の宮古島船の遭害者54名が祀られている。
  1871(明治4)年10月。首里の琉球王府に年貢を納め終わった宮古島と八重山の貢納船が那覇を出港したあと台風に遭い、宮古島船一艘が台湾の南東部に漂着した。乗組員69名のうち、溺死した3名を除いた66名は、山中をさまよった末に原住民の村へたどりつく。だが、54名が首をはねられ殺害された。難を免れた12名は、近隣の客家人に保護され、福州、長崎、鹿児島を経由して、7か月後にようやく那覇へ帰還したのだった。

  琉球の帰属問題を抱えていた明治政府は、くすぶる士族の不満を解消する手段としてもこの事件を利用、1874(明治7)年5月、西郷従道率いる3600名の軍隊を出動させた。牡丹社、高士仏(クスクス)社のパイワン族は4か月後に降伏。日本軍は、殺害された琉球民を自国民として現地に立派な墓を建て、被害者54名のうち、44名分の頭蓋骨を丁重に持ち帰った。
  その後、明治政府は1879(明治12)年に琉球を併合。日清戦争(1894-1895・明治27~28)に勝利すると、台湾を領有した。「牡丹社事件」は、近代日本が行った初の海外派兵であり、日本と台湾、日本と東アジアにとって重要な意味をもっている。

  話を戻そう。今年の初め、『宮古毎日新聞』の平良幹雄編集部長から、屏東県の「牡丹社事件紀念公園」の説明表記の一部を、遺族が問題にしているという話を聞いた。
  「”武器を持った66名の成人男子が部落にやってきた“という箇所がそれです。武器を持ってきたとなると、殺害は正当防衛だったことになってしまう。これでは被害者がうかばれません」

  初耳だった。全国紙では取り上げていないトピックだ。さらに詳しく知るために、台湾側に削除を申し入れるよう働きかけた垣花健志宮古市市議にも連絡を取った。  「市長に質問をしたり学者たちにも意見を求めましたが、進展があったのかどうかも、遺族の心痛は台湾側に伝わっているのかどうかもよくわからんのです」

話を聞くうちに、そうした地元の想いを県政府に伝えるくらいなら、お手伝いをしたいと思うようになった。

沖縄の遺族末裔との和解を伝える記事を持つ華阿財さん
  2016年2月28日。屏東県で、双方の和解を日台の学者とともに提唱した華阿財さんにお目にかかった。恰幅がよく威厳のある彼は、高士仏(クスクス)社の頭目の子孫で原住民名をベジュログという。来沖を果たした歴史的訪問について伺うと、彼は開口一番、次のように語った。

  「誤解の上とはいえ、私たちの先祖が罪のない多くの命を奪ったことをとても後悔しています。そこで、率直に罪を認めて謝罪をしたいと思ったのです」 華さんは牡丹郷長を退職後、事件当時「化外の地の民」として扱われていた原住民の視点から、「牡丹社事件」を調べ始めた。その過程で、和解と末永い友好を申し入れたいとの考えにいたったという。


  「不幸な歴史の傷をいつまでも抱え込むのではなく、互いに心を癒すために手を取り合って平和の道を歩もうと、沖縄のみなさんに呼びかけました」 はるか遠い昔のこととはいえ、事件の被害者と加害者が和解するためには、想像を超える勇気と寛容な心が必要だ。双方にとって非常に大きな試練だったろう。

その昔、漂流民は高士仏(クスクス)社に迷い込み、命を奪われた。
現在のクスクス社の全景
  この日、同席した屏東県文化処長の呉金発氏も、和平推進のために牡丹社紀念公園を多くの日本人に訪れてもらいたいと語った。そこで私は、「武器を持った」人々が上陸したという記述がご遺族の間で問題となっていることを、市議会議事録や新聞投書などを渡して説明をした。命からがら流れ着いた人々は海賊でもないし、侵略者でもない、彼らのうち誰かが護身用のナイフを持っていたにせよ、あるいは、体力が消耗していたために杖代わりの棒をたずさえていたにせよ、万が一そうだとしても、それらを攻撃用の武器と断定するのは、いささか飛躍しすぎないか。第一、「武器を持って上陸した」という史料は見つかっていない。ぜひ、専門家を交えての史実精査をしてほしいとお願いして、呉所長らと別れた。

  翌日、漂流民が迷い込んだ山道をたどって、高士仏(クスクス)社や牡丹社を、それから悲劇の現場となった双重渓の近くを久しぶりにまわり、ようやく夕方、紀念公園や征台の役の記念碑にたどりついた。いくつかの説明板を見て回ったが、日がとっぷりと暮れ、自分自身の目で「武器をもった」のくだりは確認できなかったことが悔やまれた。帰国後、お礼とともに、屏東県政府文化処あてに2005年の和解を確実なものにしてほしいとのメールを出しておいた。

牡丹社事件紀念公園の説明板。「武器を持った~」という文言が削除された。
  2016年3月。呉文化処長から次のようなメールが届いた。
「あなたが指摘した”武器を持った宮古島島民“の部分は、すでに修正しております。続いて、恒春半島にある牡丹社事件解説板も、近々検討改善するつもりです。この重要な歴史事件に関心を持ち続けてくださることを感謝しています」

 添付された写真を見ると、「武器を持った」という箇所が説明板から削除されていた。 これですべてが解決したとは思わないが、被害者遺族の方は、少しは安堵してくれるだろうか。屏東県政府文化処の対応を、私は一刻も早く宮古島に届けたいと気がはやった。

  2016年4月6日に、宮古毎日新聞社屋おいて、垣花市議も同席して被害者遺族のK.Nさんとはじめてお目にかかった。本島の浦添市に住む彼はこの日、偶然、宮古島を訪れていた。Nさんは2011年に台湾での慰霊祭に出席したあとで牡丹社紀念公園を訪問。そこで「武器を持った~」という記述を発見。今日にいたるまで、説明板の修正、謝罪を求めて声を上げてきた。理不尽な最期を遂げた先祖が、被害者の立場を覆されかねぬことに、心を痛めている。

  そうした遺族の胸の内を、第三者が完全に理解することは不可能である。だが、理解しようと努めることはできる。その悲しみに寄り添いたいという気持ちを持ち続けることもできる。それを踏まえたうえで、文化処からの返答を伝えた。

削除されたことを伝える「宮古毎日新聞」4月8日付
  すると、Nさんは高ぶる気持ちを抑えながら、「どこからこうした不確かな資料が出てきて記述されたのか、どのような経過でそれが削除されたのかを遺族に対して明らかにしてもらいたい」と語った後に、「できることなら、異郷に眠る遺骨を沖縄に持ち帰り、先祖代々の墓に埋葬したい」とも付け加えた。最後は和らいだ表情を見せながら・・・。

  世の中を見渡せば、言葉が通じるにもかかわらず、心を通い合わせる努力をしないために、なんと多くの痛ましい事件が起こっていることか。そうした風潮の中で、牡丹社事件の和解と文言の削除は、歴史に向き合う勇気を示している。


今後は原住民の視点も含め、自由闊達に議論を深めて真の和解に向けた交流をしてほしい。
うれしいことに、今年の末には、宮古島の関係者や市民らが墓参に出かける計画もあるという。