平野久美子 TOP TOPICS JORNEY TAIWAN DOG BOOKS TEA
スクープ 台湾密航の拠点だった尖閣の真実
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 蒋介石暗殺未遂で日本に政治亡命した独立派の闘士は、尖閣諸島を経由して何度も「祖国」に潜入していた。その時、あの島で何が行われていたのか? 
台湾独立派の重鎮が「尖閣諸島」の封印を解く。
  
今年の9月、尖閣諸島沖で違法操業をしていた中国漁船が、逃走の際に海上保安庁の巡視船に故意に体当たりした。一度は逮捕した中国人船長の釈放劇から現場のヴィデオ映像が流出するまでの一部始終を、あきれ顔で見ていた一人の台湾人がいる。戦後の台湾独立運動を牽引してきた革命家の史明(本名施朝暉)さんである。同志のほとんどが鬼籍に入ってしまった今も、カリスマ性と影響力に衰えを見せぬ強者で、片手に杖、片手に拡声器を持って街宣車に乗り込み、民衆を引き連れて台湾各地を遊説してまわっている
この11月に都内で再会すると、トレードマークのブルージーン姿で現れて、元気そうに「やっ」と手をあげた。以下は、尖閣諸島に何度も上陸し、島の事情も中国の本質もよく知る史明さんとの一問一答である。
―:中国は、巡視船衝突事件後も漁業監視船を尖閣諸島の接続水域に航行させていますが、次にどんな行動に出てくるでしょうか?
史明:中国は虎視眈々と尖閣諸島を狙っていますから、漁民のふりをした兵士を上陸させるかもしれないし、軍隊を派遣してくるかもしれません。ヴェトナムから奪い取った西沙群島や軍事基地を建設して実効支配してしまった南沙諸島のように、既成事実を積み重ねていくのです。それなのに日本政府は、尖閣諸島のあんな近くで海底油田や天然ガスの試掘を中国に許してしまった。ボクにはまったく理解できません。中国が東シナ海をおさえ、台湾までが中国領になってしまったら、日本へやってくるタンカーの通り道がふさがれてしまう。日本政府は、中国の無法な行為に対して断固とした態度をとるべきです。相手が弱腰になればなるほど、中国は居丈高になるのですから。
1978年10月に来日したケ小平副主席は、尖閣諸島問題をとりあげて「次世代、またはその次の世代が決めればいい」と発言した。それに油断したのか日本政府は「日中友好」の名の下に問題を棚上げにしてしまった。ところが中国は、1992年に独自の解釈に従って領海法をつくり、自国の領土だとうそぶいている。その背景には資源戦略や海洋覇権主義、インターネットであっというまに拡がる反日世論に、迎合せざるをえない中国の国内事情が見え隠れする。
―:この事件のおかげで安全保障の問題に関心が高まってきましたが、日本人は自国の領土についてもっと関心を寄せるべきですね。
史明:現在、尖閣諸島の行政区は沖縄県石垣市でしょう? 戦前は台北県宜蘭郡に属していたのです。そういうこと知っている日本人はどれほどいますか? 
史明さんはここまで話すと東南アジア一帯まで載っている大きな地図を広げ、沖縄の八重山群島、尖閣諸島、台湾の海域を指さした。周辺の海流を把握しないと領土問題は理解できないと言うのだ。史明さんが言わんとする海流は、北緯5度から25度付近を西へ向かって流れる北赤道海流のこと。速度が毎秒1~1,25メートルもあり、大きなエネルギーを蓄えている。フィリッピンのルソン島を過ぎると、台湾から北上してトカラ列島を抜けて四国南岸に達する。いわゆる黒潮だ。この海流と季節風のおかげで、台湾北部の漁民たちは釣魚台(ティァウヒータイ・漁場を指す台湾語。尖閣諸島の魚釣島のこと)へ小さな船でも比較的簡単に行ける。逆に中国沿岸からは航行が難しいという。
史明:台湾北部の漁民にとってあの島は昔から生活圏だったんです。その台湾漁民以外で、尖閣諸島に詳しいのはこのボクなんですよ。
―:それはどういう意味ですか?
史明:釣魚台経由で日本と台湾を何度か行き来したことがあるからです。
―:いつのことですか?
史明:1972年に沖縄が返還される前の話。最初に行ったのは1968年でした。
その頃、日本に拠点を置いて活動していた史明さんは、戒厳令下の台湾で非合法とされた独立運動の地下組織に、資金や情報を渡すために台湾への入国を繰り返していた。そのときいつも利用したのが尖閣諸島だった。活動家は東京からまず那覇経由で与那国島まで飛行機で行き、そこから漁船をチャーターして魚釣島へ上陸。ここで台湾籍の船に乗り換えてひそかに台湾東部の海岸線から入国するのだ。つまり尖閣諸島は、台湾の地下運動にとってなくてはならぬ中継点だったのである。
―:1968年当時はどんな工作をしたのですか?
史明:ちょうどその頃、台湾向けに独立自由放送を流す計画がありました。4人の日本人にアマチュア無線の資格をとってもらい、与那国島に小さな放送局を設置するための準備にとりかかっていました。しかし、沖縄返還に間に合うようNHKが巨大な電波塔建設に乗り出したので、ボクらの脆弱な電波ははねられてしまい計画はすべてパーになってしまいました。
―:日本へ亡命後も、蒋一族の暗殺計画を画策したのですか?
史明:1967年に蒋介石の息子の蒋経国を狙いましたが、残念なことに失敗でした。このほかにも秘密工作をずいぶんやりましたが、関係者が存命しているのでまだ話せませんな。
 ここで、革命家としての彼の略歴をかいつまんでお話ししておこう。
史明さんは1918(大正7)年、台北市士林の素封家に生まれ何不自由なく育った。早熟な少年は、もの心着く頃になると、内地人(日本人)と本島人(台湾人)との格差に胸を痛めるようになる。台北一中を優秀な成績で卒業し、1937年に早稲田大学政経学部へ入学。当初は日本人学生と下宿していたが、そのうち裕福な実家が世田谷に200坪の一軒家を買い与えたことで、学生生活を満喫した。早稲田の校風にすっかり溶け込んだ史明さんは、絣の着物にセル地(サージ)の袴をはいて下駄履きで通学。おかげでバンカラが身につき、社会主義とクラシック音楽が身にしみこんだ。「日本での学生生活が、今のボクの半分以上を創り上げた」とは本人の弁。
 1942年、同期の仲間が特攻隊に続々と志願していく中、自分も祖国台湾のために命を捧げようと決意。卒業式を欠席して単身上海へ渡った。血気盛んな24歳の青年は、すぐさま中国共産党が率いる抗日運動に参加して各地を転戦する。ところが、数年もしないうちに共産党の偽善性、非人道性に憤りを感じるようになる。しかも、彼らは捕虜にした国民党軍籍の台湾兵を国共内戦の激戦区に送り込んで、消耗品のように使い捨てていた。
 社会主義の理想郷と思った中国の本質は、実は残虐なスターリニズムと古くさい帝王主義と中華思想からくる覇権主義であると気づいた史明さんは、文化的にも民族的にも中国人と台湾人の違いを痛感する。そこで1949年に中国を脱出して台湾へ戻り、「2.28事件」(註・国民党による台湾人虐殺事件。1947年2月28日から勃発)で生き残った人々と台湾民族主義をかかげて地下組織を結成、非合法の独立運動に身を投じた。1950年、台北市郊外で蒋介石の暗殺を画策。陽明山と士林を毎日のように往復する蒋介石の車列に銃弾を撃ち込もうとしたが、直前に、隠しておいた日本軍の武器が見つかってしまい国民党特務から指名手配され各地を逃げ回ることになった。1952年、追っ手から逃れてバナナの輸送船の船底にもぐりこみ日本へ密入国。蒋介石政権からすぐさま身柄の引き渡し要求がきたが、日本政府が政治亡命者と認定したおかげで九死に一生を得た。
東京へ来てからは、生活のために中国大陸で覚えた水餃子の店を経営しながら、台湾独立運動の支援に奔走。同じく、日本を拠点にして活動する王育徳氏(1925~1985)らと一時は共闘したが、考えの違いから1967年に「台湾独立連合会」(「独立台湾会」の前身)を立ちあげた。以来、1993年に帰国が許されるまで“台湾島内こそが独立の戦場"ととらえ、先鋭的活動の実践的、精神的支柱となってきた。
 その戦いは,今なお続く。行動がともなわぬ頭でっかちの運動は意味がないとばかり、九十二歳になっても鉢巻きをしてデモやバリケードの先頭に立つ。2005年には、当時の国民党連戦主席が胡錦濤主席と会談するための訪中を阻止しようと、桃園空港へ続く高速道路にタクシー車両70台を投入。交通妨害罪と公務執行妨害罪による逮捕者の最高齢記録をつくった。彼はまた、台湾人の立場でまとめた初の歴史書「台湾人四百年史」(鴻儒堂出版社)の著者としても知られ、歴史学者の顔を持つ。農漁村に出かけては昔ながらの風習や伝統の祭りや民謡を聴き取り、若者に身近な歴史として教えている。
昨年12月、東京に滞在していた史明さんは、日課の水泳中に気分が悪くなって緊急入院。幸い大事にはいたらず、春先から台湾で再び活動を開始した
―:1972年以前の尖閣諸島はアメリカ軍が警備していたのですか?
史明:一部に射爆場もあったようだが、魚釣島には警備兵もMPもいませんでした。のどかなものですよ。
―:日本に返還された1972年以降はどうでしたか? 島の周辺で日本のプレゼンスを感じましたか?
史明 いや、全然。1978年だったか日本人の団体が灯台を建てたけれど、返還後すぐに日本政府が実効支配をしっかりするべきでした。
史明:いや、全然。1978年だったか日本人の団体が灯台を建てたけれど、返還後すぐに日本政府が実効支配をしっかりするべきでした。
―:初めて上陸した当時の島の様子はどんなでしたか?
史明:戦前のカツオブシ工場はもう廃屋になっていましたが、台湾から魚を追いかけてきた漁民が休息を取るための浜小屋が点々と建っていました。彼らはそこで数日ほど体を休めると、また魚を追って出航していくのです。
―:日本の漁民も来ていたのですか?
史明:ええ。わずかですが琉球から来ていました。
―:お互いのコミュニケーションは日本語で?
史明:当時は日本語をしゃべる台湾人がたくさんいましたからね。台湾の漁民が持ってくるマッチ、ロウソク、石けん、線香を、琉球の漁民は自分たちが釣った魚やドル紙幣と交換していました。海上でも船を止めて物々交換をやっていましたよ。あの島は台湾と琉球の共通の生活圏でしたからね。特に与那国島と台湾は距離も近いので昔から結びつきが強いのです。
―:滞在中、史明さんたちは自炊をしたのですか?
史明:漁師が毎日料理を差し入れてくれるので、何の不自由もありません。台湾の漁民も琉球の漁民も、話し好きで世話好きでした。
―:台湾の漁民は昔からカツオ漁で生計をたてていたのですか?
史明:カツオ漁は日本人が教えたのです。戦前は、内地の大手資本がチャーターした漁船に乗って、春先に尖閣諸島沖へ出かけてカツオを捕る。それを基隆にある加工場に送り、日本人がカツオブシを造っていた。戦後生まれのあなた方は知らないだろうが、戦前の台湾土産と言えばカツオブシとサンゴが有名だったの。パイナップルケーキなんか、まだなかったんだよ。だから、基骰`から内地へ戻る船客はみなカツオブシをぶらさげて帰って行ったのです。マグロ漁は比較的新しいの。日本時代に、各地に水産学校を開いた日本人が漁業技術を教えたのが始まり。それが現在のマグロ漁に発展したのです。
―:台湾の漁民は、今でも魚釣島を自分たちの領土と思っているのですか?
史明:いや、思っていません、尖閣諸島は日本の海上保安庁が警備しているから台湾の漁船は近づけないもの。漁民たちにとっては領土問題ではないの、昔のように魚が捕れるようになればいいと。ただそれだけですよ。
―:しかし、日本の新聞やテレビでも報道されているように、台湾の漁民は何度も排他水域まで抗議船を出したり、魚釣島に不法上陸をしていますね。
史明:あれは全部ウソ。日本のメディアはほんとうのことを報道していません。反対運動の中心人物は漁民でも台湾人でもなく、香港系の中国人です。彼は中共の金で香港から船を何隻もやとい、そこに金で買われた台湾人が乗船している。黒幕は中共ですよ。漁船のチャーター代は一隻4~500万元(約1200~1500万円)するの。国民党政府はそんな金もなければ日本と一戦を交えるほどの肝っ玉もありゃせんの。台湾と中国は違うということを、日本のメディアはきちんと伝えてほしいんだ。
―:中国人の抗議活動を国民党政府は黙認しているのですか?
史明:世界から、自分の国の領土さえ認めてもらえない政府が、ちっぽけな島のことなど主張できるはずがないでしょう。尖閣諸島の問題は、日本人と台湾人には論議する資格があっても中国人にはいっさいない。国民党政府にも何の関係もない話ですよ。
―:ならば、どうして自国の領土だと主張するのですか?
史明:中国が突然自分の領土だと言い出したので、そう主張し始めたわけだ。1960年代末に(註・1968年)国連アジア経済委員会が近海を調査して、海底資源の埋蔵を示唆する報告書を発表したでしょう。それ以前の中国は、あんなちっぽけな島に何の関心も示さなかったのに、大陸棚にある資源に目がくらんだのです。
―:つまり、台湾が「中華民国」を掲げている限り、中国の領土は中華民国の領土だと言い続けなくてはならない・・・。
史明:そうそう。だから「中華民国」というのは、あらゆる意味で矛盾の塊なんです。国民党政府は領土権を主張するだけで、漁民のために交渉してくれるわけでもないし相談の機関も持っていません。
―:尖閣問題に対して、台湾人と日本人が共闘できることはないのでしょうか? 台湾漁民を八重山漁協の準会員として迎え入れて操業すれば、中国を牽制することになるのではという意見が日本側にはあるようですが・・・
史明:残念ながら共闘できる体制が両方の政府にありませんね。特に今の日本政府は高度な機密が守れないから、ちょっと無理でしょう。
―:では、この先、日本はどのようにして中国に対抗し尖閣諸島を守るべきでしょうか?
史明:これはもうはっきりしています。先に兵隊を上陸させたほうが勝ちです。すぐにでも自衛隊を各島に上陸させないと、中国に乗っ取られてしまいます。向こうの軍隊が上陸したらもうおしまいです。ボクは戦後、中国大陸でゲリラ戦をさんざんやってきたから中国の出方がよくわかっています。日本政府は、国会の手続きをしないと自衛隊は出動できないと言うだろうけれど、それははき違えた民主主義だ寸土と言えども、失うことを許さないのが国家であり民族だ。領土の保全には民族をあげて戦うのが筋なんですよ。
 長きに渡る活動が培ってきた気迫が、言葉のはしばしにあふれている。この印象は初めてお目にかかった2003年から変わらない。あのとき、台北から少し離れた新荘市の事務所で迎えてくれた史明さんは、白髪と白ひげを蓄えた痩身に若々しいブルージーンとグレーのヨットパーカーをはおり、革命家と言うよりもモダンな仙人に見えた。ひっきりなしにやってくる訪問者のほとんどは海外在住の台湾人だった。私の脇に座った男性は、今朝、南米から台湾に到着したばかりだと言い、向かいの席に座った客人はロサンゼルス在住だと自己紹介した。史明さんの掲げる「台湾民族主義」のもとに海外で運動を続ける人々が、父親を慕うように集い講話を聴きにくるのだ。史明さんは各国の支援者に囲まれながら、食事をふるまい温かく歓待してくれた。以来、何度かお目にかかるうちに、その青年のような理想主義と常に民衆の立場を代弁する草の根主義、活動にすべてをささげる清貧な生き方に、私は興味を覚えた。
―:ところで、国民党に政権交代してから、台湾では中国の影響力が大きくなっていますね。史明さんたちの独立運動はいまどうなっているのですか?
史明:ボクはね、今、台湾人の団結に心血を注いでいるの。福佬人(註 福建省から移民してきた台湾人。全人口の約74パーセントをしめる)は原住民や客家に既得権をもっと譲るべきだし、300万ほどの外省人(戦後、大陸から台湾へ移り住んだ中国人とその子孫)のうち、台湾に愛着を持っている進歩的な人とはいっしょに改革していこうと呼びかけています。彼らはもう中国に戻れないのだから、共生せざるをえないはずです。ボクらは外省人に反対しているのではなくて、「中華民国の植民地」という今の体制に反対しているのです。
―:南アフリカのマンデラ氏が提唱したような、恩讐を超えた複合民族国家、“レインボーカントリー"の創成ですね。
史明:李登輝時代を経て、2000年あたりから「自分は台湾人」と言う人がとても増えてきた。これは顕著な変化です。台湾民族主義を広めるのに50年もかかったのに、あっというまに「台湾人」というアイデンティティーが養われた。これは独立への大きな希望です。
―:軍隊もあり憲法もある台湾は、すでに独立国家ではないかという声もありますね
史明:国連にも入れないのに、それを独立していると言うのは失敗主義です。「中華民国」の植民地体制がいまだに続いているのが台湾なのです。問題はまだあります。学者は主権の問題で長いこと論争しているが、台湾の民衆は置いてきぼりです。それがどういうものか一般人にきちんと伝わっていないのです。主権というのは自由と民主です、台湾人の人権を守ることですよ。対外的には民族の前途と利益の発展を守ることです。エリートが理屈ばかりこねていても世の中は変わりません。このままではいけないという危機感が沸点に近づくとみんなが動く。「民衆的眼光是雪亮」(民衆の眼力こそものごとの核心を見通す)という言葉があるでしょう、それが民衆の力というものですよ。
―:日本も、尖閣諸島の問題をはじめ閉塞的な状況から抜け出すには、民衆が動かないと駄目ですね
史明:そうそう、だらしない政府にはみんなで抗議の声をあげなくては駄目です。でもボクはね、日本に対しては楽観的です。日本は独自の文化を持っているから強いです。復元力がちゃんと働いている。家庭崩壊と騒いでも子供のために弁当を作る母親が大多数でしょう。台湾の母親はサンドイッチを買って平気で子供にもたせている。小さい頃の生活体験やしつけはほんとうに大事なのです。
―:史明さんのご両親はどんなしつけを?
史明:食事の時に迷い箸をするな、相手の立場に立ってものを考えろ、他人に対しては慎み深くなれ、文句を言う前に自分の行動を反省しろ・・・みんなあたりまえのことですが、耳にタコができるほど聞かされて育ちました。そうしたことがこの歳になるとどれだけ大切なのかひしひしとわかるようになる。だから自伝を書いているんです。台湾の若い世代に人間として大切なことを伝えるためにね。
史明さんは息を整え最後に腹の底から声を出した。「台湾はそのうち必ず独立します、これは歴史の必然です」。そしてこうも付け加えた。「台湾を独立させるという人生の目的がはっきりあるから、ボクはこの歳まで生きてこられた。目的的な人生を送る。これが健康の秘訣なんだよ」。このように話しながらも、彼は自分の残り時間を冷静にとらえている。白内障を患った左眼の不自由さを乗り越えて、春先から石を刻むように文章を綴ってきた。波瀾万丈の自叙伝は、もう完成間近である。
(『正論』2011年2月号掲載)