2020年6月30日に中国が発布した国家安全法は、翌日、すなわち香港返還23周年に当たる7月1日に早くも施行され、民主派の人々が多数逮捕されました。
ここ数年の香港と中国の緊張状態が、ついに中国のごり押しで一国二制度の事実上崩壊へとつながったことに、私は強い危機感を抱いております。
残りの27年はいったい何の意味があるのだろうと。
私は70年代から香港に魅了され足繁く通い、人生の友を多く得ました。彼らの生き方が私に大きく影響したことは確かで、我が青春は香港にあり・・・なのです。
そこで、以下に追憶の香港をご紹介します。ほんのささやかな思い出ですが、今はもう痕跡すらもないあの日の香港です。
香港よ、いつまでも香港であれ!と願わずにはいられません。
[ 幻の香港 その一 ] かつて、香港には反共の砦があった
今では跡形もなく消えてしまった国民党の落人村、こんな光景が香港にあったこと、ご存知ですか?
集落の名は調景嶺。広東語でティウケンレンに似た発音です。
仲良しのクリエイターの友人がこの村の出身者だったのです。時代の先端をいく仕事をしている彼女と、その実家の大きなギャップ........
ある時、忘れ去られたコミュニティへ案内してもらいましたが、そこは中華民国🇹🇼の青天白日旗が至るところにはためき、後に知ることになった台湾の眷村(ケンソン。国民党関係者のコミュニティ)そのものでした
当時はまだ地下鉄も通っていなかったので、香港島の北角のはずれからフェリーに乗って調景嶺へ。
彼女の父親は抗日戦争から生還した元軍人。そのため日本人の私を冷ややかに眺め、唇を曲げて私に古傷を見せました。
友人は調景嶺の小中学校で三民主義を学び、祖国奪還を語る大人たちの話を聞きながら育ったのです。
こんなコミュニティが香港に1990年代半ばまであったのですよ。
何度か訪れた不思議なエリアは、1997年の香港返還を前に香港政庁によって跡形もなく取り壊され、年寄りの住民は、慣れない高層アパートへ強制移住させられました。彼らのデモに参加したあの日が今では懐かしい。
数年前、その友達と訪ねてみましたが、地下鉄の駅に残る地名だけが、昔の名残り。再開発され、高層アパートとショッピングモールが建つ郊外のベッドタウンに生まれ変わり、ここが返還前は反共の砦であったことを知る痕跡もなければ、歴史を知る人も少なくなりました。
私は1970年代から香港に通い、2000年半ばまで、多くの友人たちを得て、この街と絆を深めてきました。私の生き方に大きな影響を与えたのは香港人です。
だから、返還23年目にして一国二制度が崩壊してしまったことを目の当たりにして、香港人同様たまらぬ気持ちで息苦しさを覚えています。
わたしが足繁く通っていた頃の懐かしい香港の面影を、あといくつかお知らせしたいと思います。
撮影 梁家泰
[ 幻の香港 その二 ] 1997年の日めくりカレンダー
返還を前にたくさんのスーベニールやコレクターアイテムが売り出された中、私が買い求めたのは、日めくりカレンダー。365枚の写真は全て、香港の歴史スポットや日々の暮らし、街中のスナップです。毎日一枚ずつ破り取って、高揚感がマックスになったところで7月1日を迎えるよう構成されています。
改めて6月30日を見ると、中国と英国のアイコンである龍と王冠が対峙しています。7月1日はミニチュアを使って返還式を模し、翌日の2日は香港法令のカバーを載せています。この3日間は休日でしたから、紙も赤い。香港の人々は法令に基づいて高度な自治を50年間、自らの手で守る決意をしたでしょう。
カレンダーに込められた希望は、今どこにいった?
日めくりカレンダーをパラパラめくりながら思うのです
[ 幻の香港 その三 ] 鴛鴦茶の悦楽
60年代の香港が産んだ庶民の飲み物、それが鴛鴦茶(インヤンティー)です。カップにコーヒーと紅茶を半々に入れ、店によってはコンデンスミルクを注ぐ。作り方は大雑把で、きちんとしたレシピなんてありませんから、店ごとに味が違う。そこがまた香港らしくて、旨い鴛鴦茶の店は、店の混み具合や行列で判断したものでした。
私が好きだったのは中環の威霊頡街(ウェリントンストリート)の、楽香園珈琲室。オーナーご自慢のインドネシアのコーヒー豆を使った鴛鴦茶とハムと卵の三明治(サンドイッチ)、チキンパイとの軽食は、いつ食べても美味しく、仕事をさぼりにきている、イケメンのエリートサラリーマンに混じり、昼下がりをまったりと過ごすのが、香港の至福の一つでした。
90年代になって日本でも知られるアートディレクターのアラン.チャンが.中環に開いたファッショナブルなカフェに登場させたことで、再び人気が出ましたね。
2004年ごろから中国大陸の観光客がなだれ込み、地価が異常に高騰し、地元の古い小規模店舗は、金ピカのブランド店、宝石店や携帯電話屋、漢方薬の店に駆逐されました。今やこうした隠れ家的なカフェは語り草で、その痕跡もありません。すっかり中環の景色は変わってしまいましたもの。懐かしい香港です。
[ 幻の香港 その四 ] 70年代の香港人
私が香港にすっかりハマって通い詰めた70年代.80年代には、すでに『自分は香港人』と胸を張る若者が沢山いました。欧米社会で勉強を終え、故郷に戻ってきた若いクリエイターの中には、国境を越えて国際的に活躍しているファッションデザイナー、グラフィックデザイナー、映像作家、演出家、写真家などがキラ星のごとく揃っていて、彼らの活動は、その頃からグローバルでした。
今では世界的なブランドに成長したヴィヴィアンタムも、ロンドンの留学から戻ってきたばかり。若いアーティストたちは、香港オリジナルの文化を香港から発信するのだとやる気満々で、私はどれほど刺激を受けたかわかりません。
どの国で生活しても、自分は自分と、アイデンティティをしっかり持っていた香港人の彼らに、私は多くを学びました。
そんな彼らと時代を共に生き、一緒に60代まで過ごし、70代、80代も仲良くできそうです。
だから、余計に現在の香港の若者の主張が悲痛に聞こえます。自分は香港人だと当たり前のことを言っただけで、国家安全法に抵触する....ついこの間まで、香港では誰もが香港人と胸を張り、オリジナルの文化を創造することに燃えていました。
加油、香港人!
写真は、70年代の香港人の笑顔です
[画像の説明:左] 当時香港ばかりか欧米の企業広告も手掛けグローバルな活躍していた「イラストレーション・ワークショップ」のクリエイターたち
[画像の説明:中] 今は亡き香港デザイン界の鬼才、フィリップ・コウ(後ろの列の向かって左)の姿も映っています
[画像の説明:右] 今や、グローバルなファッションブランドとなったニューヨーク発の『VIVIENNNE TAM』の創設者、ヴィヴィアン。彼女との最初の出会いも1970年代の半ばごろ。ロンドンのデザインスクールを卒業して香港に戻ったばかりの彼女
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